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シャハムのベルク協奏曲 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はギル・シャハムでベルクのバイオリン協奏曲だった。僕はこの曲をブ○ッフやラ○なんかよりもずっといい曲だと思うし、ブラームスみたいにめんどくさくないし、ショスタコーヴィチ(の特に1番)やブリテンの協奏曲と並んでもっと演奏されてもいい曲だと思っている。

この曲は12音技法に従っているらしいけど、半音が衝突したり音色の違う楽器が悲鳴のように神経質な音を鳴らしたりということはあまりない。とは言え、それまでの古典派ロマン派のような、嬉しい悲しい楽しいといった感情のはっきりした音楽ではなくて、わかりにくいところがある。でも実際の人間の心の動きは、いつもそういった古い音楽のような情動失禁みたいな状態にあるわけではなくて、もっと何層にも重なり合った襞の多いもので、一色で塗り固めたようなものではない、曖昧ではないけどすっぱりと割り切れるものではないはずである。

その意味でベルクのこの曲は僕には自然に感じられる。調性や明暗や音色が移ろっていくけど、突然切り替わることはない。いつもグラデーションの中にある。集中力を持った演奏者による音を集中力を持って聴けばその機微が伝わるはずだと僕は思っている。そういう条件が整えば最後の6度9度の和音にカタルシスを感じることができると僕は思う。

シャハムは完璧なテクニックで決然と弾き進んでいく。余裕さえあるように聴こえる。改めてすごいバイオリンだなと思ってしまった。オーケストラにそういう決然としたところがもう少し欲しかった。曖昧なところがあると聴いている方はすぐ立ち位置を見失ってしまいそうになる。

ところで、シェーンベルクの、特に若い頃の曲はときどきワーグナーっぽいな、と感じるようなところがでてくるけど、ベルクのこの曲では、マーラーっぽいと思えるところがときどき出てくる。曲が脱力したところでそういう感じが多い。マーラーマニアの僕としてはちょっと嬉しい。まあどうでもいいことだけど。
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ヤルヴィ・ゲルネ「角笛」 [クラシック]

今夜のEテレクラシック音楽館はゲルネでマーラーの「子供の不思議な角笛」だった。ゲルネは初来日の時に女房と藤沢で聴いて、いろんな意味で驚いたバリトン。みんなオペラばっかりやってリートをやる歌手が少なくなって寂しく思っていたので、すごく頼もしく感じた。そのうちあれよあれよと言う間にトップクラスのバリトンになって他人事ながら嬉しかった。

「角笛」は同名の童謡詩集からマーラーが選んだものを歌曲にしたもの。子供に見られる幼稚で残酷でわがままでグロテスクで視野の狭い愚かさを、マーラーが面白がって取り上げたかのような曲集になっていて、マーラーらしいと言うか、マーラーがその性質を自身に持っていて自己嫌悪を伴った共感が現れているんではないか、とも僕には思える。

ゲルネが歌うとそういうマーラーの皮相的なところはあまり目立たなくなるように聴こえた。それよりもオーケストラの長調と短調が気まぐれに入れ替わるときや、木管楽器の間でフレーズが受け渡されるときに音色が変化するのに従って、歌のニュアンスを微妙に変えていく。言葉以上の何かを音楽で伝えようとするマーラーの本来の意図がわかるような気がして、僕は気に入った。オーケストラがそこまで気を使って音を出してるか、というと残念感がちょっとあるような気がしたけど。

女房は僕の横で一緒に聴いていて、ゲルネが歌手としての盛りを過ぎたみたい、と言っていた。これまで聴いたゲルネはビブラートが少なく音程がはっきりわかる歌い方をしていたけど、今日のは確かに低い音で聞き取りにくいときがあった。高音では声の伸びを期待するような曲ではないのでよくわからなかったけど、女房は気になるところがあったようである。

50を過ぎたところだからバリトンならまだまだやれるはずである。ゲルネには頑張って欲しい。若い歌手でこういう知的なリート歌いが見当たらないのも残念である。僕から見たらみんなオペラをやって破れ鐘のような声を上げるせいで、脳みそと髄膜に隙間ができてしまって、知的な歌に困難が伴ってるんではないか、と思ってしまう。たまにはリートをやったほうが老後のためにもいいのではないだろうか。
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クラシック音楽館のアンスネス [クラシック]

今日のEテレのクラシック音楽館でモーツァルトのピアノ協奏曲21番をアンスネスのソロでやってた。このアンスネスはすごくよかった。ナマで聴きたかった。

よく制御されたタッチの音色がほんとに美しい。クレシェンドデクレシェンドも滑らかで毛羽立つことがない。昔、僕が子供の頃はこの曲をすごく甘い音色でやるのをよく聴いた。そういうのとは違って明晰で、なによりも気張らず偉そぶらない素直さが伝わってくる。人柄なのかもしれない。フィナーレでのオーケストラの木管楽器とのやったりとったりも全く自然で聴いていて気持ちいい。

アンコールではまさかモンポウをやるとは思わなかった。僕はモンポウが大好きで、もっと評価されていい作曲家だと思っている。モンポウは何気ない土着の歌に思いがけず普遍性が内在するような曲をたくさん書いている。このアンコールの曲のように、ほんとに何気ない短い曲ばかりで、しかもいかにもこてこてのスペイン風という感じなんだけど、どこか深いところにふと触れられるようなところがあって引き込まれてしまう。アリシア・デ・ラローチャが死んでモンポウ弾きが絶えてしまって寂しいと思っていた。アンスネスがみっちりやってくれると嬉しいんだけど。

やっぱりアンスネスはナマで聴きたいな。ずっと前からドビュッシーだったら必ず行こうと思ってたんだけど、モンポウやらないかな。それなら絶対聴きに行くのにな。
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読売日響定期「フラングのストラヴィンスキー」 [クラシック]

読響の第587回定期を聴きに行った。何目当てかと言うとヴァイオリンのヴィルデ・フラング
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いろんなところのオーケストラや放送局がネットで公開しているコンサート録音を聴いていて、若手なのにすごくはっきりした太い音で押しが強いように聴こえた。おそらくゴツイおっさんだろうと勝手な先入観を抱いていたんだけど、あとになってCDのジャケ写なんかで可愛いお姉さんだと知ってびっくりした。見た目と音が全然違うやん、下ぶくれだけど(関係ない)。

これは生を聴いてみたい、とずっと思っていたら、女房がチケットとるけど行くか?なんて言ったので二つ返事で決めた(ピアノとのコンサートもあってそっちのほうがキャラがわかりやすくてよかったんだけど、メインがブラームスのソナタだったので残念だけど諦めた。ブラームスは寝るし)。でもストラヴィンスキーなんだよなあ。ストラヴィンスキーのヴァイオリンコンチェルトって何度聴いても頭に残らないって言うか、ストラヴィンスキーらしいところはあるんだけどどうもぼやけてるって言うか、ちまちましとらんとしゃんとせいや、と言いたくなるような曲だと思っていた。ストラヴィンスキーにはときどき、いや結構そう言う曲があると僕には思える。

そのちまちま協奏曲を、こわもて(もちろん音が)フラングがどうやるのか、というのが楽しみだった....

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Eテレ「クラシック音楽館」シュトラウスとマーラー [クラシック]

今夜、Eテレの「クラシック音楽館」のヤルヴィN響を見た。前半はヨハン・シュトラウスのワルツを何曲かだった。シュトラウスは毎年明けにウィーンフィルが実況をやるのでさんざ聴いている。はっきり言ってどれも内容に乏しい音楽で、僕からするとなんでわざわざコンサートでやるのかわからない。

ヤルヴィN響のアンサンブルは完璧なんだけど、いつも正月にテレビの前で酒を飲みながら寝転がって聴いているウィーンフィルに比べるとすごく硬い。シュトラウスの音楽は徹底的に能天気で、耳たぶより後ろのことはさっぱり忘れた、というようなのに、なんだか難しいことをやっているぞ、みたいに聴こえる。せめて楽しそうならいいのにと思うんだけどそういうところもあまりない。音楽の空虚さが強調されているように聴こえてしまった。

一緒に聴いてた女房によると「ベートーヴェンがスカートはいてるみたい」という。音楽の演奏のことになるといつも辛辣な僕の女房だけど、言い得て妙だと思えてこれには僕も笑ってしまった。

後半はマーラーの4番。僕はこの曲をヤルヴィが言うような純粋な曲だとは思っていない。マーラーが二十歳代半ばで書いた第1番は自身の子供時代と決別する曲なのに、その十年以上も後に子供の純粋さを持つ曲を書くわけがない。僕はこの曲を、四十歳を間近にしたマーラーがあるとき見た長い夢を音楽にしたものなんではないか、と思っている。

誰でも自分の若い頃の、妙に鮮明な夢を見るものである。見ているときには懐かしさは感じないし、現在の歳をとった自分が何も知らない若い自分に乗り移っていることに不自然さは感じない。しかし既視感がうっすらとあって、ふとしたところに今の自分が投影できない齟齬というか違和感があったりする。そういう没入的な感覚と鳥瞰的な視点とが同時にこの曲にはあると思っている。

ヤルヴィN響はここでもなんだか硬いんだけど、シュトラウスに比べればそれほど気にならない。シュトラウスにはない音楽的な内容に救われていると言う感じもする。

驚いたのは4楽章で歌うソプラノが3楽章最後のトゥッティのフォルテシモのときに袖から歩いてきて、ヤルヴィのそばに立ったこと。これは盲点だった。最初から立ってるわけにもいかず、かといって3楽章が終わってから現れると拍手が起こったりしてシラけてしまう。アイデア賞ものの大正解。これって最近は他でもこうなのかな。

この曲のソプラノは難しい。マーラーの曲に出てくる声楽ソロは下手ではダメだけど、上手すぎて全てを歌い尽くすようなのはもっとダメで、余白というかスキがないと面白くない。特にこれと「大地の歌」、それに「角笛」と「亡き子」はそうで、さらにこの4番ではイタリアオペラみたいな豊満でエロいソプラノだとそれだけで曲全体がぶち壊しになってしまう。その意味でこのソプラノはよかった。ちょうどいい下手さがあった。それに楽譜を手に持たず、音のない間もずっと顔をあげたままなのもいいし、終わってからの若々しい笑顔もよかった。

歳を食うと、肩を露わにしたぼんきゅっぼんよりもこのほうがかえってエロを感じるものである。なんのこっちゃ。
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9月23日横浜みなとみらいホールでの読響定期 [クラシック]

この三連休もずっと仕事用のコードをシコシコ書いて過ごす予定だったんだけど、女房お気に入りのアンデルシェフスキとカンブルランが今日の昼、横浜みなとみらいホールでやるのを今朝知った。女房も昼のコンサートはノーマークだったらしい。当日券が残っていると言うので二人で行ってきた。
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不意打ちみたいに面白かった。女房が気にいるのも良くわかる...

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6/20アムラン ピアノリサイタル [クラシック]

ここ数週間仕事が煮詰まってて悶々としてるんだけど、今夜は女房と二人で雨の中、銀座まで行った。アムランは僕がナマを聴いてみたい、とずっと思っていたピアニスト。
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充実しててめちゃ面白かった....

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読響第577定期 [クラシック]

女房のお気に入りのカンブルランが、僕の大好きなマーラーの9番を振るというので二人で行ってきた。
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なかなか良かった...

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読響第574定期 [クラシック]

うちの女房お気に入りのカンブルラン読響の定期演奏会をふたりで聴きにいった。

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なかなか面白かった.....

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アバド+マーラーユーゲントの9番 [クラシック]

台風をおしてまた工場に来ている。今日は移動に膨大な労力を費やしただけに終わって、仕事にならなかった。無駄に疲れた。

たまたまYouTubeでアバドがマーラーユゲントを振ったマーラーの交響曲9番を聴いた。こういった世界トップレベルに近い演奏を、十分鑑賞に耐える画質音質で、簡単にロハで見聴きすることができるというのはすばらしい。僕が子供の頃を考えたら本当に夢のようである。

とはいうものの演奏そのものは「?」が多いものだった。第1楽章はずっと一本調子で曲の持つ開放感が表現しきれず、退屈な曲になってしまった。本来そんな曲ではなくて、もっともっと深みと広がりと、そしてなによりも、こんな自由さというのが存在するんだ、ということを教えてくれる曲だと僕は思っている。

第2楽章もやり過ごし感の多い演奏だった。第1楽章に比べるとマーラーの筆が鈍ってるとしか思えないところもあるのでしょうがないかもしれない。しかもそこそこ長いのでこれを聴かせるというのはかなり大変ではある。

すばらしいのは第3楽章のブルレスケ。オーケストラの機能と機動性を両立させた名演だと僕は思う。トリオではツッコミが足りなくてダレもあるけど、主部はリズム感のはっきりした、まるで後先考えないというような潔い音楽になっていた。ソリストたちの技術の高さもある。全体としてのアンサンブルは、やはり世界水準には劣るかもしれないけど、オーケストラメンバの自負と度胸と意気込みが感じられて聴いていて気持ちいい。

コーダのプレストに入ってからはそれこそジェットコースターのようで、実に爽快だった。やはり運動能力の高い若い人が音を出しているからいいのかもしれない。僕は歳を食って運動能力が演奏能力に直接に影響するということを今更ながら知りつつある。

フィナーレは陰影のない妙に明るい場面が連続する不思議な演奏。こんなの初めて聴いた。一見スッキリしてるようでどこかドロドロしたところのあるマーラー独特の遠近感がなくなって、なんだかのっぺりした絵になってしまった。こういうのもありかな、とちょっと思ったけど、やっぱりこの音楽の本来の姿ではない、という気がする。僕としてはこのフィナーレのせいで残念感溢れるという評価になった。

最初に書いたように、このレベルの演奏がこのレベルの(少なくとも僕にとっては)高画質高音質で簡単にロハで鑑賞できる、というのはすごいことである。しかし、この一回の演奏のために指揮者とオーケストラメンバが重ねてきた時間と努力に釣り合った聴き方なのか、というと疑問は残る。

演奏者としてはその見返りは必要だし、でなければこのあと続けていくことは困難になる。昔はライブに参加するのでなければ、LPやCDというパッケージ、つまり入れ物を買うことで中身に対する対価を支払ってきた。それは中身に対して直接対価を支払う手段がなかったから仕方なしにそうしたに過ぎない。

しかしそうすると、また例によって売れなければならない、ということになってしまう。クラシック音楽の受け手の層は今では薄いので、AKBと同じシステムに乗ったのではやっていけない。アバドとマーラーユーゲントのCDを一人で五百枚買う奇特な人は存在しない。

パッケージの意味がなくなった今、なにかもっと直接的でみんなが納得できるシステムはできないものか、と思ってしまう。

やっぱりケイロンに行くしかないのか....
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