So-net無料ブログ作成
クラシック ブログトップ
前の10件 | -

クラシック音楽館のアンスネス [クラシック]

今日のEテレのクラシック音楽館でモーツァルトのピアノ協奏曲21番をアンスネスのソロでやってた。このアンスネスはすごくよかった。ナマで聴きたかった。

よく制御されたタッチの音色がほんとに美しい。クレシェンドデクレシェンドも滑らかで毛羽立つことがない。昔、僕が子供の頃はこの曲をすごく甘い音色でやるのをよく聴いた。そういうのとは違って明晰で、なによりも気張らず偉そぶらない素直さが伝わってくる。人柄なのかもしれない。フィナーレでのオーケストラの木管楽器とのやったりとったりも全く自然で聴いていて気持ちいい。

アンコールではまさかモンポウをやるとは思わなかった。僕はモンポウが大好きで、もっと評価されていい作曲家だと思っている。モンポウは何気ない土着の歌に思いがけず普遍性が内在するような曲をたくさん書いている。このアンコールの曲のように、ほんとに何気ない短い曲ばかりで、しかもいかにもこてこてのスペイン風という感じなんだけど、どこか深いところにふと触れられるようなところがあって引き込まれてしまう。アリシア・デ・ラローチャが死んでモンポウ弾きが絶えてしまって寂しいと思っていた。アンスネスがみっちりやってくれると嬉しいんだけど。

やっぱりアンスネスはナマで聴きたいな。ずっと前からドビュッシーだったら必ず行こうと思ってたんだけど、モンポウやらないかな。それなら絶対聴きに行くのにな。
nice!(1)  コメント(2) 

読売日響定期「フラングのストラヴィンスキー」 [クラシック]

読響の第587回定期を聴きに行った。何目当てかと言うとヴァイオリンのヴィルデ・フラング
0417frang.jpg
いろんなところのオーケストラや放送局がネットで公開しているコンサート録音を聴いていて、若手なのにすごくはっきりした太い音で押しが強いように聴こえた。おそらくゴツイおっさんだろうと勝手な先入観を抱いていたんだけど、あとになってCDのジャケ写なんかで可愛いお姉さんだと知ってびっくりした。見た目と音が全然違うやん、下ぶくれだけど(関係ない)。

これは生を聴いてみたい、とずっと思っていたら、女房がチケットとるけど行くか?なんて言ったので二つ返事で決めた(ピアノとのコンサートもあってそっちのほうがキャラがわかりやすくてよかったんだけど、メインがブラームスのソナタだったので残念だけど諦めた。ブラームスは寝るし)。でもストラヴィンスキーなんだよなあ。ストラヴィンスキーのヴァイオリンコンチェルトって何度聴いても頭に残らないって言うか、ストラヴィンスキーらしいところはあるんだけどどうもぼやけてるって言うか、ちまちましとらんとしゃんとせいや、と言いたくなるような曲だと思っていた。ストラヴィンスキーにはときどき、いや結構そう言う曲があると僕には思える。

そのちまちま協奏曲を、こわもて(もちろん音が)フラングがどうやるのか、というのが楽しみだった....

続きを読む


nice!(1)  コメント(0) 

Eテレ「クラシック音楽館」シュトラウスとマーラー [クラシック]

今夜、Eテレの「クラシック音楽館」のヤルヴィN響を見た。前半はヨハン・シュトラウスのワルツを何曲かだった。シュトラウスは毎年明けにウィーンフィルが実況をやるのでさんざ聴いている。はっきり言ってどれも内容に乏しい音楽で、僕からするとなんでわざわざコンサートでやるのかわからない。

ヤルヴィN響のアンサンブルは完璧なんだけど、いつも正月にテレビの前で酒を飲みながら寝転がって聴いているウィーンフィルに比べるとすごく硬い。シュトラウスの音楽は徹底的に能天気で、耳たぶより後ろのことはさっぱり忘れた、というようなのに、なんだか難しいことをやっているぞ、みたいに聴こえる。せめて楽しそうならいいのにと思うんだけどそういうところもあまりない。音楽の空虚さが強調されているように聴こえてしまった。

一緒に聴いてた女房によると「ベートーヴェンがスカートはいてるみたい」という。音楽の演奏のことになるといつも辛辣な僕の女房だけど、言い得て妙だと思えてこれには僕も笑ってしまった。

後半はマーラーの4番。僕はこの曲をヤルヴィが言うような純粋な曲だとは思っていない。マーラーが二十歳代半ばで書いた第1番は自身の子供時代と決別する曲なのに、その十年以上も後に子供の純粋さを持つ曲を書くわけがない。僕はこの曲を、四十歳を間近にしたマーラーがあるとき見た長い夢を音楽にしたものなんではないか、と思っている。

誰でも自分の若い頃の、妙に鮮明な夢を見るものである。見ているときには懐かしさは感じないし、現在の歳をとった自分が何も知らない若い自分に乗り移っていることに不自然さは感じない。しかし既視感がうっすらとあって、ふとしたところに今の自分が投影できない齟齬というか違和感があったりする。そういう没入的な感覚と鳥瞰的な視点とが同時にこの曲にはあると思っている。

ヤルヴィN響はここでもなんだか硬いんだけど、シュトラウスに比べればそれほど気にならない。シュトラウスにはない音楽的な内容に救われていると言う感じもする。

驚いたのは4楽章で歌うソプラノが3楽章最後のトゥッティのフォルテシモのときに袖から歩いてきて、ヤルヴィのそばに立ったこと。これは盲点だった。最初から立ってるわけにもいかず、かといって3楽章が終わってから現れると拍手が起こったりしてシラけてしまう。アイデア賞ものの大正解。これって最近は他でもこうなのかな。

この曲のソプラノは難しい。マーラーの曲に出てくる声楽ソロは下手ではダメだけど、上手すぎて全てを歌い尽くすようなのはもっとダメで、余白というかスキがないと面白くない。特にこれと「大地の歌」、それに「角笛」と「亡き子」はそうで、さらにこの4番ではイタリアオペラみたいな豊満でエロいソプラノだとそれだけで曲全体がぶち壊しになってしまう。その意味でこのソプラノはよかった。ちょうどいい下手さがあった。それに楽譜を手に持たず、音のない間もずっと顔をあげたままなのもいいし、終わってからの若々しい笑顔もよかった。

歳を食うと、肩を露わにしたぼんきゅっぼんよりもこのほうがかえってエロを感じるものである。なんのこっちゃ。
nice!(0)  コメント(0) 

9月23日横浜みなとみらいホールでの読響定期 [クラシック]

この三連休もずっと仕事用のコードをシコシコ書いて過ごす予定だったんだけど、女房お気に入りのアンデルシェフスキとカンブルランが今日の昼、横浜みなとみらいホールでやるのを今朝知った。女房も昼のコンサートはノーマークだったらしい。当日券が残っていると言うので二人で行ってきた。
0923cambreling.jpg
不意打ちみたいに面白かった。女房が気にいるのも良くわかる...

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 

6/20アムラン ピアノリサイタル [クラシック]

ここ数週間仕事が煮詰まってて悶々としてるんだけど、今夜は女房と二人で雨の中、銀座まで行った。アムランは僕がナマを聴いてみたい、とずっと思っていたピアニスト。
0620Hamerlin.jpg
充実しててめちゃ面白かった....

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 

読響第577定期 [クラシック]

女房のお気に入りのカンブルランが、僕の大好きなマーラーの9番を振るというので二人で行ってきた。
cambr.jpg

なかなか良かった...

続きを読む


nice!(1)  コメント(3) 

読響第574定期 [クラシック]

うちの女房お気に入りのカンブルラン読響の定期演奏会をふたりで聴きにいった。

2018-01-13.jpg
なかなか面白かった.....

続きを読む


nice!(0)  コメント(0) 

アバド+マーラーユーゲントの9番 [クラシック]

台風をおしてまた工場に来ている。今日は移動に膨大な労力を費やしただけに終わって、仕事にならなかった。無駄に疲れた。

たまたまYouTubeでアバドがマーラーユゲントを振ったマーラーの交響曲9番を聴いた。こういった世界トップレベルに近い演奏を、十分鑑賞に耐える画質音質で、簡単にロハで見聴きすることができるというのはすばらしい。僕が子供の頃を考えたら本当に夢のようである。

とはいうものの演奏そのものは「?」が多いものだった。第1楽章はずっと一本調子で曲の持つ開放感が表現しきれず、退屈な曲になってしまった。本来そんな曲ではなくて、もっともっと深みと広がりと、そしてなによりも、こんな自由さというのが存在するんだ、ということを教えてくれる曲だと僕は思っている。

第2楽章もやり過ごし感の多い演奏だった。第1楽章に比べるとマーラーの筆が鈍ってるとしか思えないところもあるのでしょうがないかもしれない。しかもそこそこ長いのでこれを聴かせるというのはかなり大変ではある。

すばらしいのは第3楽章のブルレスケ。オーケストラの機能と機動性を両立させた名演だと僕は思う。トリオではツッコミが足りなくてダレもあるけど、主部はリズム感のはっきりした、まるで後先考えないというような潔い音楽になっていた。ソリストたちの技術の高さもある。全体としてのアンサンブルは、やはり世界水準には劣るかもしれないけど、オーケストラメンバの自負と度胸と意気込みが感じられて聴いていて気持ちいい。

コーダのプレストに入ってからはそれこそジェットコースターのようで、実に爽快だった。やはり運動能力の高い若い人が音を出しているからいいのかもしれない。僕は歳を食って運動能力が演奏能力に直接に影響するということを今更ながら知りつつある。

フィナーレは陰影のない妙に明るい場面が連続する不思議な演奏。こんなの初めて聴いた。一見スッキリしてるようでどこかドロドロしたところのあるマーラー独特の遠近感がなくなって、なんだかのっぺりした絵になってしまった。こういうのもありかな、とちょっと思ったけど、やっぱりこの音楽の本来の姿ではない、という気がする。僕としてはこのフィナーレのせいで残念感溢れるという評価になった。

最初に書いたように、このレベルの演奏がこのレベルの(少なくとも僕にとっては)高画質高音質で簡単にロハで鑑賞できる、というのはすごいことである。しかし、この一回の演奏のために指揮者とオーケストラメンバが重ねてきた時間と努力に釣り合った聴き方なのか、というと疑問は残る。

演奏者としてはその見返りは必要だし、でなければこのあと続けていくことは困難になる。昔はライブに参加するのでなければ、LPやCDというパッケージ、つまり入れ物を買うことで中身に対する対価を支払ってきた。それは中身に対して直接対価を支払う手段がなかったから仕方なしにそうしたに過ぎない。

しかしそうすると、また例によって売れなければならない、ということになってしまう。クラシック音楽の受け手の層は今では薄いので、AKBと同じシステムに乗ったのではやっていけない。アバドとマーラーユーゲントのCDを一人で五百枚買う奇特な人は存在しない。

パッケージの意味がなくなった今、なにかもっと直接的でみんなが納得できるシステムはできないものか、と思ってしまう。

やっぱりケイロンに行くしかないのか....
nice!(0)  コメント(0) 

ヤルヴィとN響 [クラシック]

Eテレ13日夜のクラシック音楽館を聴いた。ターニャ・テツラフのチェロでシューマンの協奏曲と、シューベルトの8番。ターニャのなんだかしゅっ、としたチェロはカッコいい。でも僕はシューマンのオーケストラ曲が苦手なせいで十分理解できない。どうも僕にはシューマンの言うことが外国語に聴こえてしまう。

シューベルトの8番は齟齬が大きかった。ヤルヴィは軽く軽くやりたいのにN響がついてかない、という感じがする。第1楽章の序奏がかなり速いスピードだったり、第2楽章のアンダンテがその序奏よりもさらに速いんだけど、軽さよりも慌てた感じがしてしまう。

3楽章のトリオもオーケストラが遅くしたがっているように聴こえてしまった。そのせいでなんだか落ち着かないざわざわした感じのままトリオがやり過ごされてしまう。主部に戻ると最初にやったよりもなんだか落ち着かない。

フィナーレはもともと落ち着きのない曲なのでそれほど目立たずに済んだ、という感じ。でも、展開部にある特徴的なひびきの重い小節から戻ったときに、そのままその重い雰囲気を引きずっている。僕が考えるシューベルトでは、そこであっさりともとに戻らなければいけない。

前にも書いたけど、僕は子供の頃このフィナーレを聴いて、明るい曲想にもかかわらずいつ果てるとも知れない繰り返しのせいで、ふいにぽか、っと暗い落とし穴が開いてるような空恐ろしい感じがして、怖くていつまでも好きになれなかった。これを聴いて僕はそれを思い出した。

指揮者がすべてコントロールできるわけではないにしても、あまりにも考えていることが違いすぎる、という印象が僕には残った。ヤルヴィとN響のどっちのせいなのか、は僕にはよくわからなかったけど。
nice!(0)  コメント(0) 

井上道義のショスタコーヴィチの評価 [クラシック]

僕はNHKでやったショスタコーヴィチの交響曲12番を井上道義が振ったのを聴いて、11番のほうを聴きたかったと思った。大阪ではそれをやってくれたらしい。その評が朝日新聞に上がっていた(ログインが必要)。僕はその演奏を聴いていないのでどうだったのかはよくわからない。しかし、その評論では演奏どうのこうのよりも、暗にではあるが曲目が悪い、と言いたかったようである。

ベートーベンの交響曲のように主題を、全知全能を尽くして展開するのとは違う。チェーホフの芝居やチャイコフスキーのオペラに出てくる際限ないカードゲーム。
たった数種類のカードが執拗(しつよう)にめぐる。図柄は民衆の嘆き、怒り、革命指導者の号令、決起と騒乱など。展開なき反復。その要領で、長大な交響曲ができる。

ついこないだ説明したように(その1その2)僕は全くそう思わない。「展開なき反復」とはよく言ったもので、引用された革命歌はほどんど展開されていないのはその通り。しかしそれ以外はそうでないことはすでに説明した。

朝日の評者は
そういう音楽の楽しみ方は、知的な読解とは違ってくる。映画音楽的、バレエ音楽的といってもよい。遊戯に耽(ふけ)り、大河にのまれて時を忘れる。

という。僕は少なくとも交響曲11番では非常に知的で高度な音楽言語が駆使されていると考えていることはすでに書いた。音楽評論家が高度な音楽言語を理解しようとしないで誰がそれを言語化(ことばとしての)できるのか。

僕としては評者である片山杜秀がもっと虚心にショスターコヴィチの音楽を聴くべきだとは思うが、はっきり言って年寄りがどう思おうがどうでもいい。若い人がこういう頭の固い年寄りの言うことはそれはそれとして鵜呑みにせずに、自分でショスタコーヴィチの音楽を聴いてもらってどう思うかを自身で考えてもらいたい、とつくづく思う。数百年間いわゆるクラシック音楽というものはそうやって発展してきたのである。

だから、若者よ、ショスタコーヴィチを聴け。あなたたちの苦悩の一部はそこに表現されている。それを理解するためにはワーグナーやマーラーを聴く必要があるかもしれないが、そう感じるならそれを聴け。それを聴いてわからなければモーツァルト、ベートーヴェンを聴け。その音楽言語(言葉によらない純粋な音)はそういう作曲家たちの積み重ねで高度化されてきた。

「可愛いあの子に、僕は首ったけ」が音楽の全てなら僕の言うことはない。それ以上の表現が音楽にはあると僕は思っているし今の若者にはそれが必要だと思っている。そしてそれはクラシックだけではなくジャズにもロックにもそれぞれ違った表現が存在している。「言葉では表せないその次」を知りたいならそう言う音楽を聴け、若者よ。そうやって音楽は、芸術は発展するのである。
前の10件 | - クラシック ブログトップ