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光学実験用汎用部品の変遷 [日常のあれやこれや]

先日のアイデアはダイレクトカットレンズの決裁がおりたので、物理的に評価する準備を始めることにした。もう去年暮れからずっとスイッチが入った状態のまま、計算はひと段落させて、こんどは汎用光学部品メーカのカタログとにらめっこしてる。結局この土日もほとんど外に出ずにそうやって終わってしまった。もうそんな週末を断続的に2ヶ月近く過ごしている。

今回はざっくり4つの評価装置を立ち上げる。そのうち2つは素子そのもののパラメータの測定(ひとつは干渉計になる)のためで、残りの2つは動作評価のため。汎用メカと汎用光学素子と僕が図面を描いた少しの加工部品とで、僕が光学系を組んで回路をはんだ付けしてカメラ画像から評価値を計算するソフトを書いて立ち上げる。全部一人でやるつもりでいる。

なんでそこまで自分で全部やるかというと、装置の専門会社に任せるのに懲りたからである。僕は今の会社に移ってすぐのころ、専門の装置屋さんに自動組み立て調整設備を投げる場面に遭遇した。僕がこうしたいと言ったことがちゃんと反映されて、一応動くものが上がってきて今でも量産に使っているんだけど、出来上がった装置を見ていくと僕の気に入らないところがいっぱいあった....

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メルセンヌ素数の本 [日常のあれやこれや]

こういうの(こないだ誰かが見つけた現在最大のメルセンヌ素数の本)をシャレで作るのはいいけど、買う奴がいるというのが信じられない。

この出版元には、ぜひともこんどは100ページぐらいの正誤表を本にしてほしい。
....
第127ページ、4,106,643桁目 3(誤) → 8(正)
第139ページ、4,494,672桁目 5(誤) → 2(正)
....
とかいうの。同じ数だけ売れないとおかしいよな。

僕に言ってくれれば「2進数版」とか「16進数版」とか作ってあげられる。2進だと77,232,917文字が全部「1」だし、16進だと最初の1文字目の「1」以外19,308,229文字全部「F」だし。

「$2^n$進数版」ならどんな$n$に関しても作れるので言って欲しい。64進数以上はどんな文字を使えばいいのかわからないけど。
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「スイッチ」が入った [日常のあれやこれや]

去年の暮れに今の会社の製品としてちょうどいいアイデアを思いついた。会社のために考えていたのではなくて、もう少しで終わるところのガウシアンビームの話の締めを考えていた。ガウシアンビームの品質の目安として$M^2$の話を前回やったけど、$M^2$が目安になるのは近軸波動方程式の解のうちある条件を満たしたものだけになる。ではどういう場合に$M^2$が品質の目安とは言えなくなるか、というのを計算していて面白い振る舞いを見つけた。それがきっかけになった。

ほんとはここにどういうアイデアに基づいたなんなのかを具体的に書きたいんだけど、さすがにできない。しかしこういうとき、他の人がどうなのかよくわからないけど僕の場合、普段とはちょっと違った状態になることがある。そのことを書こう....

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日曜美術館「魂こがして 青木繁」再放送 [日常のあれやこれや]

今夜の日曜美術館は青木繁の再放送だった。出演者の石橋凌は僕と同い年だけど、キャラは暑苦しく僕には彼の言うことが理解できなかった。青木繁の代表作「海の幸」をわざわざパリまで見に行きながら団子のように固まった感慨があるだけなのは、僕にはツッコミが足りないとしか思えない。ブリジストンで見るのと何が違うんだよ。違うわけないだろ。

僕は「海の幸」が傑作なのはそこに日本人の呪術性が描かれていることだと思っている。番組の中で神輿を担ぐ男たちとの類似が語られていた。僕はまさしくその通りだと思っている。

絵に描かれた裸の男たちは漁の成果を喜んでいるようには見えない。むしろ整然と、粛々とまるで儀式を遂行しているかのように見える。儀式はもう終わるところなんだろう、男たちには呪術的儀式を滞りなく終わらせた充実感と疲労を見ることができる。いくら未開の漁村であっても全裸で漁をすることはありえない。全裸はすなわち禊(みそぎ)である。また彼らが担いでいる獲物は漁の成果ではなく、儀式の小道具であって、つまりは神輿のようなものである。

日本には季節に従った風習が残っている。節句ごとの家庭内のお祭りや正月彼岸土用や何々供養のたぐいは今でも商業主義と相まって日本人の生活に根付いている。日本人のほとんどはなんのためにあるのかわからないのに、そう言うしきたりになんとなく従っている。「敷居を踏む」「夜に爪を切る」なんていう小さなことでさえ今でも気にする人はするけど、日本人以外にはまったく意味不明である。

また「恵方巻き」のようについ最近になって企業論理に基づいて作られた物でも、なんとなくそんなものかな、と思ってしまうのは、日本の風習にありがちなパターンに馴染みがあるから受け入れられやすい、ということだと思える。

そう言う風習の多くには本来ちゃんとした起源があって、大抵呪術的な意味があった。しかし今ではその本質は忘れ去られて形だけが残ったものがほとんどである。

青木繁の「海の幸」はそういう日本人の意識されない呪術的儀式を描いたもののように僕には思える。青木繁本人も意識していたとは思えない。だからよけいに日本人がこの絵を見ると普段は気がつかないけど何百年もの習慣から染み付いた根深い澱のようなものを感じてしまうんではないか、と僕は思っている。

また例によって僕の勝手な解釈。フランス人がそれをどう見たか、は僕にはわからない。
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読響第574定期 [クラシック]

うちの女房お気に入りのカンブルラン読響の定期演奏会をふたりで聴きにいった。

2018-01-13.jpg
なかなか面白かった.....

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またmacOSがやらかした [日常のあれやこれや]

macOSのシステム環境設定でAppStoreの変更ロック解除パスワードがザルというバグが見つかった。僕も試してみたらどんな文字列を入れてもロック解除できた。システム環境設定の他のロック解除はとりあえずはちゃんと動いているようである。

これはすなわちシステム環境設定の左下にある鍵アイコンが単なるUIの共通化の役割しかしていない、ということである。ついこないだのrootパスワードのバグもひどかった。これも直接の影響は少ないとは言え、同じような超低レベルのバグであることは間違いない。

本来、権限取得譲渡のメカニズムは分散すべきではなく、ボトルネックでなければならない。例えば、unixの設計思想ではsetuid/setgidというシステムコールがそのボトルネックの役割を果たしていた。macOSでは必ずしもそうなっていない、ということが2回続けてバグが発覚したせいで白日のもとに明らかになった、と言える。

これは「バグ」というような生易しいものではない。システムの根幹に関わる設計思想の問題である。一方でLLVMClangという超強力な技術をバックにswiftを作り出して、ついにメモリリークフリーの世界を実現するかのような先端的なAppleの動きとの大きなギャップを、僕としては感じてしまう。

こういうほころびって僕には、優良企業が怪しくなる端緒というか兆しというか前触れに見える。思い起こせば前いた会社が十数年前、こう言うのが小さいながらもいっぱいころがってた、という気がする。いや、その会社は今でも存在してるけど、ね。
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溜飲を下げる [日常のあれやこれや]

ちょっとした思いつきで去年暮れから休み返上で1ヶ月以上ずっとやってる計算を、アプリケーション側の専門家の人たちから何の意味もないと言われて、しかもそれを別の場所でそれぞれ独立に言われてかなりへこんでいた(僕自身は今でもそれに意味がないとは思っていないけど)ところへ、今日は会社でそれとは別のムカムカすることがふたつ同時に重なった。

実はさっきまでその話をここに書いてたんだけど、さすがに憚られる内容だと思ったのと、こんなことを書いて溜飲を下げるのはやっぱり大人げない、と思うので結局全部消してしまった。

そんなわけで今日はさっさと会社から帰ってきてダラダラしながら平林さんの記事を読んだ。阪大の入試問題の問題ってこういうのだったんだ。知らなかった。問題としてはなかなか面白い。音叉が作る音の場ってモノポールの場にはならないのはそりゃそうだろうと思うけど、ダイポールでもないんだ。素直にじっくり考えればそうだよな。

壁での音の反射とミラーでの光の反射は違うと言うのもちょっと考えればそうだよな、と思えるんだけど、この出題のように書かれると、僕はずっと光の場ばかり30年間も考えてきたので、ついどんな波も光と同じだと思ってしまう。こういうのって年寄りにありがちな一種の思考停止で、改めて僕は縦波をわかってない、と言うことに気づかされた。面白かった。

おかげでちょっとムカムカの気が晴れた。
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「作者の言いたかったこと」 [日常のあれやこれや]

小中学校のころ、文章を読んで「作者の言いたかったことは何でしょうか」「作者の意図を述べなさい」という国語の設問があった。僕には難しかったけど、秀才に言わせると「関係ない文章を除いていって最後に残った文が答え」であるという。そしてそれがたいてい正解だった。

確かにそのアプローチはそれなりに正しくて、国語の問題だけでなく、例えばドストエフスキーの小説のような長い作品であっても、同じことをすると「作者の言いたかったこと」に到達できる可能性は高い。もちろんドストエフスキーでは取捨選択に膨大な作業が必要になるけど。

ただし作品によっては、例えばカフカの多くの小説のように、「関係ない文章を除いていく」 という取捨選択の結果、何も残らないということもある。それは「作者の言いたかったこと」が言葉として表現されていない、あるいは言葉で表現できない、という場合である。そのような作品に対しては件の秀才アプローチは失敗する。

しかしそういう作品であっても、さらには小説だけでなく音楽や絵画、あるいは映画とかにも「作者の言いたかったこと」は厳然と存在していて、言葉の有る無しに関わらず、作者自身がその「言いたかったこと」をどのくらい真摯に考察したかによって、どのくらい受け手の心に響くか、が違ってくる。僕はその姿勢のことをちょっと大げさに「作家の真実」と呼んでいる。

そして、取捨選択で何も残らないもうひとつの場合がある。つまり「作者に言いたいことがなにもない」という場合である。そういう作品には「作者の言いたいこと」が本当に無いのか、というと実はそうではなくて、あえて表現してみると、「この作品を売りたい」あるいは「これを当てたい」「これで儲けたい」という「メタ」な意図であることが多い。小説よりも音楽、さらには映画と、製作に費用がかかる作品ほどそういった「メタ」な意図による作品が多いような気が僕にはする。

そしてそういう「メタ」な意図のみから作られた作品の場合、作品の各部分はすべてがその「メタ」な意図に奉仕するよう設計され、その効果が最大になるように最適化される。そういう作品に接した受け手は作品が精巧に作られている、という印象を強く感じる。そしてそしてそういう作品はたいてい実際に精巧なものである。が、受け手の心に響くかどうか、はそれとは別次元の問題である。

.....

先日、新海誠監督の「君の名は。」の地上波放送を見て。
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