So-net無料ブログ作成
  • ブログをはじめる
  • ログイン

落語と演劇 [日常のあれやこれや]

コメントをもらったせいで昔のことを思い出した。コメントの応答にも書いたけど、子供のころ、たぶん小学校三、四年、きっかけはテレビの演芸番組だったと思う。当時、昭和30年代後半の京阪神地方のテレビでは日曜の午後は寄席、新喜劇、歌舞伎の劇場中継が連続していたし、ウィークデーにも埋め草のように寄席の録画が流れたりしていた。

祖母が好きだったからだろう、歌舞伎には家族でときどき行った記憶がある。母はハリウッド映画が大好きだったけど祖母も父もそれほどではなかったらしくて、母は僕が学校から帰ってくるのを待ち構えて僕を連れて近所の三番館へ見に行っていた(当時主婦とはいえ、30前の女が一人で映画館に行くというのはあり得なかった。子供を連れていればいいか、というとそんなことはなかったとは思うけど)。

そんな家庭だったのに一度も家族で寄席に行ったことはなかった。当時すでに関西では落語の常打ち小屋としての寄席はなくて、行くなら花月のようなバラエティステージになっていたのかもしれない。よく覚えていない。

今から思うとどうやら僕は一人で勝手に何かにハマる子供だったらしい。テレビラジオで落語の番組を一人で見聞きしていた。いつのまにかよく聞くネタはそらんじられるようになった。コメントにも書いた小学校の朝礼でのエピソードは僕にとってはその成果発表のつもりだったような気もする。中学に入る頃FM大阪が始まって、そこでも中途半端な時間帯にポロっと中継をやってたりした(そのFMのNHKで「現代の音楽」なんていう番組もあってそういうのも同時に聞いてたという変な子供だった)。

そんな子供の中学の3年のとき、台詞(セリフ)覚えの良さを買われて修学旅行先で「国語科特別公演」として舞台設備の不要な劇をやろう、と国語の先生から言われて「長屋の花見」を舞台劇に翻案してやった。台本の書き起こしはその国語の先生がやった。はたして劇の評判はさんざだった....

「国語科特別公演」はそのときだけではなく、文化祭なんかでも枠を持っていて、国語担当の先生たちからクラスや学年を超えて指名された生徒が参加して講堂で練習上演した。今から考えれば贔屓と言われてもおかしくないような状況だけど、指名される生徒が成績の悪いのから選んだことがいつも明らかだったので、成績の上位の生徒からは先生のお遊びとみなされていたんだろう。僕は1年と2年の文化祭と、その修学旅行の3回参加した。

そもそもなんでそんなのに付き合うことになったか、というと中1の2学期だったと思うけど、何かの拍子に先生の前で落語の「青菜」をそらんじたことからだった。
「植木屋はん、植木屋はん、あんた青菜食べてか?」
「いらん!」
「ええ?食べてもらわな困るがな」
「わし青いもんあかんねん。子供の頃から年寄りが食べさせようとしたんやけどあかんかったんや」
「そんなこと言わんと食べてくれ。そんでないとおさきが押し入れから出られん」
「なんやて?」
「いや、それはどうでもええねん、とにかく食べてか」
「よっしゃわかった、お前ら夫婦してなんか願掛けでもしてるんやろ、食べたるがな」
「青菜、食べてか? これ、奥や」ぽん、ぽん、と手を叩く。
「はい、だんさん」
「うわ、おさきさんが押し入れから飛び出してきたがな。汗びっしょりやがな」
職員室の西日の当たる先生の机の横でだったので、宿題を出してなかった、とかで呼ばれたときだったんだろうと思うが、なんでそんなことになったのか覚えていない。でもそれで先生は
「よう覚えてるなあ、僕も落語は好きやねん」
で、劇に出ないか、という話になった。シュワルツェネッガーの頬をコケさせたような顔つきの大柄な先生で、よく叱られて僕は怖くてしょうがなかった。その先生は担任ではなかったし、演劇なんて見たこともなかったけど、やったらおもろいぞう、と言いながら口元は笑ってるんだけど目は笑っていない怖い顔を近づけるので、承諾するしかなかった。

中学1年の秋の文化祭で「12人の怒れる男」のパロディのような劇をやった。クラスの中である問題が起きてある一人の生徒がその犯人だとみんなが思って断罪しようとする。それが実は冤罪ではないか、と一人の生徒が言い出すところから始まる。男子ばかりの登場人物全員にほぼ均等にセリフが割与えられた台本だった。運動部の生徒もいた(僕は陸上部だった)けどどうやって練習時間を確保していたのか覚えていない。その本番は他の生徒からは完全スルーで、上演中の講堂は寒々としたものだった。しかし上演者の台詞トチリがないどころか、僕が思っていたよりもちゃんとしたサスペンスフルな劇に仕上がっていた。出演者の親からだけ、「うちの子を見直した」「あんなことができる子だとは思わなかった」などという話がいくつもあった、と後になって僕の母親から聞いた。

中学2年の時は、僕と同じ学年の女の子二人がどうしても参加したい、と言ってきて入ることになった。彼女たちの国語の成績はトップクラスで、おそらく先生たちと近しくなりたかったんだろう。劇はそれあわせてスセリヒメとヌナカワヒメの二女神が競い合うという国語科の先生を総動員した、最後にどんでん返しのある渾身の創作台本になった。先生たちは楽しそうにああでもないこうでもないと台本を練り上げ、演技指導にまで先生たちがよってたかって振り付けた。このときは出演のない大道具担当の生徒も参加して大掛かりなものになった。

僕は一方のヒメのボーイフレンドという配役が与えられた。台詞も多かったけど、下手で刀を受けてバタッと倒れて、急いで舞台の後ろを走って上手の岩山に模した跳び箱の上に現れる、などという派手な演出もあった。あるとき僕が練習の過程で小道具の勾玉をどこかになくしてしまった。それがヒメ役の女の子の私物だったのでシュワルツェネッガー似の先生に大声で叱責された。子供の僕は震え上がって探し回った。見つからずにしょぼくれてうちに帰ると自分の部屋に転がっていた。

この上演は客席に国語科の先生が勢ぞろいだったので生徒も結構見に来ていた。終わってからヒメ役の女の子たちは国語の成績の上位生徒たちの嫉妬からくるイヤミの集中砲火を受けたらしいが、先生たちはそういったことには鷹揚で、かばうこともせずたしなめもせず眺めているだけだったように覚えている。僕を含めた先生から呼ばれて参加した生徒は例によってまったくスルーで何の話題にもならなかった。

そして修学旅行先での公演となる。それが春だったか秋だったかよく覚えてないんだけど、少なくとも文化祭の季節よりはずっと前だった。例のシュワルツェネッガー似の先生が僕を職員室に呼んで、今度は修学旅行でやるぞ、旅先やから大道具のいらん劇がええなあ、とか言って僕が参加する前提で話していた。僕がその時提案したとは今となっては思えないんだけど、落語ネタだったら装置もいらない、登場人物が多めの話がいい、とかいうことになったんだろう、「貧乏花見」をやろう、と先生が言い出した。

そのとき先生が台本を書き起こすのに使ったのは東京落語版の「長屋の花見」だったんだけど、言葉遣いが関西弁でも東京弁でもなくいわゆる標準語に調整されていた。上方落語の「貧乏花見」は台詞の主が誰と特定できないことが多くて、登場人物が何人なのかもよくわからない。一方の東京落語「長屋の花見」は朝の雨で仕事に出そびれた店子を大家さんが呼び集めて花見に出かけるという話になっていて、登場人物が特定しやすかったんだろう。

先生は僕にその大家の役をやれと言った。だいたい30分ぐらいの台詞ばかりの劇なのに大家さん役は台詞のほぼ半分を占めていて、僕がガリ版刷りの台本の自分の台詞に赤い線を引いたら全ページが真っ赤になった。文化祭での上演とは違って役者は同じ学年の生徒だけ(当たり前か)で練習時間もぜんぜん少なかった。僕はどうやってか台詞を全部覚えた。

修学旅行先は馬籠だった。島崎藤村所縁の地を歩いて調べるという趣旨がメインだった。観光バスに長時間閉じ込められて宿についたその夕方の、夕食前の空き時間に細長い宴会場の50cmほど高くなったステージでの上演だった。みんなは疲れと空腹の上にまた狭いところに閉じ込められたせいで、後ろの方からざわついてきた。そのうち宴会場はただの雑談場になってステージでは勝手に何かやってる、という状態になった。どこかから「面白ないわ、やめんかい」という声も聞こえた。僕らはそれを意識しながら一応最後まで劇を通した。「酒柱が立っています」を合図に「お後がよろしいようで」と役者が並んでお辞儀をして終わった。拍手もなかった。

このときは女の子も何人か役者に含まれていて、プライドの高い子たちは屈辱に感じたようだった。先生は終わった時一人々々によくできた、と言葉をかけたけどそれだけで、それを不満に思った子もいた。僕には「本当にお前は台詞覚えがええなあ。絶対どこかでトチると思てたんやけどなあ、ひとつも間違わんかったなあ」と怖い顔のまま笑った。

僕はずっとあとになってから気がついたんだけど、この「国語科特別公演」は、国語の成績の悪い生徒の救済策の一環だったらしい。件の国語の先生お気に入りの生徒は含まれていず、集められたメンバは国語の後ろからの成績を争っている生徒ばかりだった。とはいっても誰でもいいというわけではなかったらしく、僕のような台詞覚えのいいやつか、あるいは落ち着きのないいちびりとかで、どちらかというと頭の回転は速くないけど根は素直というような生徒ばかりだった。成績が中の下あたりからうえのやつとか、まじめなのに成績の上がらないとか、勉強はできるんだけど反抗的で成績は悪い、と言ったタイプは含まれていなかった。おそらくそういう子供にはまた別のプログラムが用意されていたのかもしれない。

中学3年の文化祭に僕は呼ばれなかった。でも3回付き合った「国語科特別公演」で毎回同じ顔は見なかったので、普通の参加は1回きりだったということだろう。当時の中学生にしては遅くまで練習して、勘ぐる親もいたらしい。自分の子供が成績の悪いのを重々知っていて「先生に呼ばれたので遅くなった」と言われれば無理もない。

劇に参加することで成績が上がったか、あるいはなんらかの教育的効果があったか、というとよくわからない。少なくとも僕の国語の成績は3年間超低空飛行だった。だからこそ3回も参加することになったのかもしれない。しかし先生からは成績のことはおろか、教育的配慮を匂わす言葉はひとこともなかった。そもそも目的さえ説明しなかった。呼ばれた生徒の中には「なんで俺がやらなあかんねん」というやつもいた。そういう生徒をどうやって説得したのか僕は知らないけど、当時の中学生は案外素直だったのか、結局みんな最後まで付き合っていた。

僕は小学校のとき先生から「何を考えているのかわからない」と言われ続けた。中学に入っても「変な子」とよく言われた。今から思えばそもそも何も考えてないというのがあるけど、自己表現がうまくできない子供だった。そういう子供が「国語科特別公演」のおかげで普通になりました、というのならそれこそプロジェクトXネタだけど、うまい話がそうそう転がっているわけはない。

落語はそういう経験を経て僕の人格に刷り込まれた。演劇に対しても自分の性格からはありえないとしか思えないんだけど、その後も興味を持ち続けた。子供の頃のこういう経験はあとあと尾をひくものらしい。
nice!(0)  コメント(2)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 2

たこやきおやじ

大変ユニークな先生がおられた学校に行かれていたのですね。
修学旅行も珍しい所ですね。私は東京の公立の中学、高校だったので
2回とも奈良、京都でした。(^^;
by たこやきおやじ (2018-08-02 00:19) 

decafish

コメントありがとうございます。
昔は先生方も今ほど忙しくはなかったのかもしれません。

僕の子供の頃の京阪神間の中学校の修学旅行はどこもこんな感じだったみたいです。奈良京都は遠足とかで行き尽くしていて、かと言って東京は遠いし、都会の子供がまた別の都会へ行くよりかは、知らないところへ行ってついでにそこにまつわる歴史の勉強をさせよう、ということだと思います。

僕のときは生徒の準備委員会で行き先や行った先で何をするかを決めて、その内容を職員会で審査する、というものでした。審査と言っても移動や宿の手配を先生方が受け持って、中身に関しては(少なくとも建前は)生徒の自主性を尊重する、という学校側の方針でした。

最近の中学校はどんなでしょうか....
by decafish (2018-08-02 18:13) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

トラックバック 0