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「量子論はなぜわかりにくいのか」読了 - その1 [読書]

吉田伸夫著、技術評論社「知の扉」シリーズ。
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いや、僕にはすごく面白かった。というか膝ポンものの連続だった。でもやっぱり、よくわからないところも残る....

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ガウシアンビームの光学 - その4 [ガウシアンビーム]

ガウシアンビームを自由空間の波動方程式から導こうと言う話の続き。その1でHelmholtzの方程式を、その2でその解として平面波を、その3では$z$方向にはおおむね平面波的に伝播する近似を入れた近軸波動方程式を導いた。

今回はその近軸波動方程式の解のうち平面波の次に簡単そうな、$z$軸周りに回転対称な解を探す準備をする....

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ガウシアンビームの光学 - その3 [ガウシアンビーム]

まだまだ先は長い。サクサク行こう。しかし、MathJaxは便利だし美しいし簡単だし、いいとこづくめですな。

自由空間の波動方程式から出発して、その1では時間に依存しない形のHelmholtzの方程式を導いて、その2では一番簡単な解として平面波を導いた。簡単だからと行ってバカにしてはいけない。これには非常に広範囲の応用があることは、知ってる人はみんな知ってるまったくその通りである。平面波を笑うものは平面波に泣く、である。なんのこっちゃ。

しかし今回は平面波を導くのが目的ではないので、本題に戻ってさっきとは別の形を考える....

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たまたまみつけたネタ [日常のあれやこれや]

これみて笑った

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わははは、そういうひともいるだろうなあ。僕も純虚数のベキに比べると2次関数を単独で使うことはかなり少なかった。偶数次ベキの和はいまだにわりとしょっちゅうあるけど。

僕にとっては「ありをりはべりいまそがり」に苦しめられたけど、その後の人生40年間役に立つことは一切なかった。選んだ職種による、ということだろうな。

まんべんない一般教養的な教育の必要性も理解できるけど、少なくとも理系の職種では専門化が進んでいて、高校で勉強する数学と大学の専門教育とのギャップがどうしても広がってしまう。今の高校生が将来の仕事のツールとしての古典電磁気学や量子力学を大学の1年2年で理解するためには、高校ではまったく触れられないベクトル解析や偏微分方程式を勉強しないといけない。

せいぜい常微分しか知らない平均的な高校生にとって、それはけっこうな重荷ではないだろうか。そんなところに自分は適性があるかどうかその時点で判断しないといけないというのも、まんべんない教育を受けてきてまんべんなく点を取って来た高校生には非常な苦痛が伴うだろうことは想像に難くない。今の日本の教育システムはそういう「まんべんない」子供を育てることに注力しているように僕には思える。

もちろんやってみなければどこに適性があるかはわからない。よその国のように早い段階で将来の職種が限定されてしまうというのは僕には問題があると思えるので、適性がはっきりするまでは「まんべんない」教育は必要だろう。高校卒業まではその意味での「モラトリアム」が許されるべきだとは思う。

でも、明らかに適性のない分野の教育を無理やり受け続けさせるのも問題ではないだろうか。僕は小学生の頃から理科算数がちょっとマシ、図画工作音楽はやっと人並み、それ以外は地を這うという状態で、非常に偏っていることは明らかだった。そう言う子供に「古文」をむりやり勉強させるより、ベクトルや偏微分を勉強させる方が、結局はあとあとの役に立ったのではないだろうか。

僕の行った大学では「電磁気学」や「量子力学」や「解析力学」といった基礎的な講義で大量の落伍者を出していた。僕も友人と一緒に集中的に勉強してどれもギリギリセーフというレベルだった。問題は講義の内容ではなくそれに必要な基礎的な数学の理解が乏しいのが原因だった。もちろん一般教養でその数学はあるんだけど同時進行的になってしまって学生にとっての混乱の元だったと思う。

僕のいた電子工学科ではそのどの講義も必須だったので落伍者の多くは追試を繰り返してなんとか単位をとった。追試のたびに合格の閾値は下がっていって、そのおかげで助かった学生もいた。

電磁気学の最後の追試で、それに答えれば合格点の半分が手に入ると言う問題に
電磁気学の基礎方程式を書け。
書けなければその「名前」だけでも書くように
というのがあった。どうみても完全なサービス問題だったんだけど、それに
「オームの法則」
と書いたやつがいて、そいつは学科でただ一人栄誉ある「0点」をもらってその時点で留年が確定した。その事件は学科の学生の間で代々語り継がれる伝説となったが、苦労してなんとか合格した学生たちにとっては、教育の無力さを思い知らされるという事件でもあった。

今思うと2次関数で留年よりずっと情けないな。

ガウシアンビームの光学 - その2 [ガウシアンビーム]

こないだ、「キュア・マクロン!」「キュア・ルペン!」「キュア・フィヨン!」「キュア・メランション!」「おまえ、語呂悪いな」というギャグを思いついたんだけど、時期を逸してしまった。

それはどうでもよくて、こないだから近軸方程式の解としてのガウシアンビームをじっくり導こうと始めた。前回は波動方程式を空間に依存する部分と時間に依存する部分の積に仮定しただけで終わった。サクサク行かないとまた他のネタに割り込まれてしまう。今日はその続き、一番簡単な解として平面波を導く....

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ガウシアンビームの光学 - その1 [ガウシアンビーム]

ずっと前近軸方程式からガウシアンビームを導くのをここでやろうと思っていた。それは
  1. 僕を含めた光学屋は平面波ばかりを扱って、悪く言えば「平面波ボケ」になってるのではないか
  2. 近軸方程式の扱いはそれほど難しくないのに、それなりに数学に味わいがある
  3. 僕は今半導体レーザを仕事で扱っていて、そこではガウシアンビームは基本の「キ」である
のでちょっと違うことをじっくり楽しみながらやりたいと思って先日始めた(もう去年のことになってしまった)。だけど何だったか先に済ませたいことができてほったらかしになっていた。これを再開して続きを書きたい。

でも式の埋め込みにMathJaxを使いたいので、完全に重複するけど、もう一度最初からやることにする。今回から普通にams-LaTeXで書く。ところでずっとLaTeX→HTML+MathJaxコンバータがないか探していたんだけど、なかなかいいのが見つからない。どうせ難しげなHTMLは書かないので、いいのが見つかるまで手動で変換することにした。ただし表なんかはめんどくさいのでtthに変換させてこぴぺすることにする。やってみると僕の場合それで十分なことがわかった。

それとひとこと最初に注意しておく。基本的には普通の教科書に載っているやりかたを踏襲するつもりだけど、これは「教科書」ではありません。間違いもあるだろうし、無駄なことやかえってわかりにくくなるようなことも書く。僕の揮発性の高い記憶力(高蒸気圧はMSDSに注意喚起しておかないといけないな。蒸気を吸うと鋭い忘却力がうつります)を補助するためとボケ防止のため、そしてそれを他の人と共有したり議論したりするために書く。

もちろん勉強中の学生さんとかに突っ込んでもらうのは大歓迎である。ただし、別にもう一つ頼りになる教科書を持つなり、途中の計算をちゃんと自分でチェックするなりしていただきたい。鵜呑みにしたら痛い目に会います。今から予言しておきます(予言とは言わんか)。

それでは、とざい、とーざい。まだまだ申し述べたき口上は数々ございますれども、長口上は芸当番数の妨げ、自由空間の波動方程式からスタートいたしまする....

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「量子革命」読了 [読書]

マンジット・クマール著、青木薫訳、新潮文庫。
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こないだの本とほぼ同じ時代の量子力学の歴史をカバーしながら真逆のアプローチ。結構面白かった。

全然関係ないけど、前の会社の同僚で青木薫という名のRIE(反応性イオンエッチング)プロセスの専門家のおばちゃんがいた。飲み会でいつも僕と酒の趣味がぴったり一致してお互いにびっくりしていた。いや、単に同姓同名というだけで、ほんとに全然関係ないけど....

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RaspbianのMathematicaその2 [Raspberry Pi]

こないだMathematicaのデスクトップ版は11.1が出て、Raspberry PiにバンドルされたMathematicaはまた離されてしまった。しかしし11.1で追加された機能はニューラルネットや機械学習、ビットマップのベクトライズ、Wolframのサーバが持ってるいろんなデータへのアクセス、といったような重い処理ばかりなのでRaspberry Piではどのみち厳しい。

今日ここでは、RaspbianをインストールしてまずMathematica(wolfram-engine)をpurgeする、ということはとりあえずしないで、Mathematicaを試しに使ってみようと思うけど、どこからやればいいの?という人の参考になればと思うことをちょこっとだけ書く。今回は僕が作ったネタではなくてWolframのサイトからのもの....

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RaspbianのMathematica [Raspberry Pi]

父の死でまだドタバタしてる。それはそれとして、このブログは元のペースに戻したい。いつまでも死んだ話をトップに置いておくわけにもいかないし。

ということで、平林さんの指摘があったあとでは時期を逸した感があるけど、RaspbianにバンドルされているMathematicaが最新バージョンになった。
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手前のウィンドウで表示されてるのが僕のmacBookProのMathematica「システム情報」で、後ろがRaspbian(Raspberry Pi 3 Model B)のもの。ながいこと10.3のままだったのでこれは放置プレイか、と思っていたが、とうとうパソコン版に追いついた。ちなみに今upgradeするとバージョンは同じだけどカーネルのビルドデートが2017031701になっている版(bug fixだろう)がインストールされる....

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父が死んだ

ここに書こうかどうしようか迷ったけど、やっぱり書くことにする。

僕の父が先月末死んだ。享年93歳。死因は動脈瘤解離だった。それまでピンピンしていて死の2日前に入院し、死の前日に僕と電話で話したときは「医者が大げさに言うからみんな騒ぐ」などと怒っていた。死の当日の昼まで食事をしっかり取って、退屈だと言ってあたりを散歩していたそうである。その夜解離が起こって僕は連絡をもらった。次の日の朝、西宮市にある病院に僕は横浜から遅ればせながら向かった。

身内に迷惑をかけない大往生ではあるけど、その瞬間まで当人に死ぬ気はまったくなかった。自分でも思いがけなかったのだろう、その瞬間を看取る者は誰もいなかったらしい。

僕は大学では下宿して就職してからも離れて生活していたので、いつも顔を突き合わせていたわけではないけど、親子とは不思議なもので知らずしらず影響を受けていた。

父は青春を戦争のために不本意に費やし、戦後は苦労を重ねて生活してきた。父の世代はみなそうだった。父はあまり僕に自身の若い頃の話はしなかったが、神戸大の工学部精密機械(当時は神戸高専)を卒業してある光学メーカに就職したらすぐ満州工場に配属されてそのまま徴兵された話や、その工場で作った双眼鏡を渡されて馬に乗って丘の上まで斥候に行かされた話や、終戦後広島を経由して神戸に戻ったが仕事はなく古自転車を修理したり、その余った(余らせた)部品を使ってもう一台でっち上げた話なんかを聞いたことがあった。

僕は小さいころに、音楽や絵画の趣味を父から教わった。神戸市立中央図書館の主幹としてドイツグラモフォンのレコードを所蔵のために購入してはときどき自分の子供に貸していた。当時小学生の僕には父が持って帰ってくるレコードが楽しみだった。ジャケットに書かれた「Beethoven Symfonie mit Chor op.125」などのタイトル以外は僕には全く読めなかったが、どれもすり減るほど何度も聴いた。一方で大判の美術書は禁帯出だから見たければ図書館に来い、と言われた。レコードも禁帯出のはずだったけど、蔵書が見た目に痛むのはやっぱり避けたかったらしい。

僕が就職して、大学で勉強した物性に関する仕事をするのではなく、これから新しく光学の勉強をするように言われたと父に話すと、押入れから真っ茶色になった分厚い本を2冊取り出してきて「俺はこれで勉強した」と渡してくれた。1冊は光学の教科書でもう1冊はガラスカタログだった。中身はどちらもドイツ語だった。


父はなんでも自分でする人だった。小さい頃の僕や僕の弟が欲しがるおもちゃを、木や発泡スチロールなんかで自分で作って与えた。「マイティジャック号」やアポロの月着陸船の模型は、出来るまでは僕の友達は綺麗なプラスチック製のを持っているのに僕のは父親が作ったもので、そんなの誰にも見せられない、と思ってたけど出来上がってみるとかなり精密かつ大掛かりで、僕は最初文句を言ったのも忘れて見せびらかしてまわった。

父はたまに料理もした。僕は子どもの頃、たまに父が握る寿司が特に好きだった。当時の関西圏は肉は高かったが魚は種類が豊富で安かった。あるとき父が「関西では昔は寿司といえば押し寿司のことだった」と言って蒸しアナゴの押し寿司を作ったことがあった。僕は子供心にこれはすごく美味いとびっくりしたのを今でも覚えている。そのとき父は押し寿司用の箱型の木枠まで自分で作っていた。それまでの何週間か休みになると黙々と木を切っては鉋がけをして、大きめのかまぼこ板のようなものをたくさん作っていた。それで何をするのか家族の誰も知らなかった。

僕が就職してしばらくしたある日家に帰ると、家中が木彫の仏像だらけになっていたことがあった。知り合いから木彫用の素材を小山になるほど大量にもらったのだという。丸彫りやら組み合わせたものやらいろいろで、「たくさん作ったけどあまり上手くはならんわ」と言いながら次のを彫り始めていた。

神戸の震災で家の真下に亀裂が走って家の土台がふたつに割れてしまったとき、市の被害認定が半壊になってそれでは修理費用の足しにはならない、と言って自分で土台部分に楔を入れてはセメントを流すということを繰り返して、何年もかけてとうとうたった一人で元どおりにしてしまった。


「自分でなんでもやろうとする」というところは僕も似たようである。その姿勢がいつも良い結果をもたらすと言うことはないけど、僕にはもう染み付いてしまっている。僕もこの性質を墓場まで持っていることになるんだろう。

井上道義のショスタコーヴィチの評価 [クラシック]

僕はNHKでやったショスタコーヴィチの交響曲12番を井上道義が振ったのを聴いて、11番のほうを聴きたかったと思った。大阪ではそれをやってくれたらしい。その評が朝日新聞に上がっていた(ログインが必要)。僕はその演奏を聴いていないのでどうだったのかはよくわからない。しかし、その評論では演奏どうのこうのよりも、暗にではあるが曲目が悪い、と言いたかったようである。

ベートーベンの交響曲のように主題を、全知全能を尽くして展開するのとは違う。チェーホフの芝居やチャイコフスキーのオペラに出てくる際限ないカードゲーム。
たった数種類のカードが執拗(しつよう)にめぐる。図柄は民衆の嘆き、怒り、革命指導者の号令、決起と騒乱など。展開なき反復。その要領で、長大な交響曲ができる。

ついこないだ説明したように(その1その2)僕は全くそう思わない。「展開なき反復」とはよく言ったもので、引用された革命歌はほどんど展開されていないのはその通り。しかしそれ以外はそうでないことはすでに説明した。

朝日の評者は
そういう音楽の楽しみ方は、知的な読解とは違ってくる。映画音楽的、バレエ音楽的といってもよい。遊戯に耽(ふけ)り、大河にのまれて時を忘れる。

という。僕は少なくとも交響曲11番では非常に知的で高度な音楽言語が駆使されていると考えていることはすでに書いた。音楽評論家が高度な音楽言語を理解しようとしないで誰がそれを言語化(ことばとしての)できるのか。

僕としては評者である片山杜秀がもっと虚心にショスターコヴィチの音楽を聴くべきだとは思うが、はっきり言って年寄りがどう思おうがどうでもいい。若い人がこういう頭の固い年寄りの言うことはそれはそれとして鵜呑みにせずに、自分でショスタコーヴィチの音楽を聴いてもらってどう思うかを自身で考えてもらいたい、とつくづく思う。数百年間いわゆるクラシック音楽というものはそうやって発展してきたのである。

だから、若者よ、ショスタコーヴィチを聴け。あなたたちの苦悩の一部はそこに表現されている。それを理解するためにはワーグナーやマーラーを聴く必要があるかもしれないが、そう感じるならそれを聴け。それを聴いてわからなければモーツァルト、ベートーヴェンを聴け。その音楽言語(言葉によらない純粋な音)はそういう作曲家たちの積み重ねで高度化されてきた。

「可愛いあの子に、僕は首ったけ」が音楽の全てなら僕の言うことはない。それ以上の表現が音楽にはあると僕は思っているし今の若者にはそれが必要だと思っている。そしてそれはクラシックだけではなくジャズにもロックにもそれぞれ違った表現が存在している。「言葉では表せないその次」を知りたいならそう言う音楽を聴け、若者よ。そうやって音楽は、芸術は発展するのである。

ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その2 [クラシック]

「ショスタコーヴィチの交響曲第11番は名曲だ」説の後半。どうしても第1楽章は要素の提示が多いので指摘すべきことも多くなってしまう。今日は残りを一気に辿って僕の結論を示す....

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ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その1 [クラシック]

ちょっと前のことになるけど、井上道義の振るショスタコーヴィチの交響曲第12番の放送を聴いた。僕はこの12番には「スベった」感があるような気がしていて、これなら井上道義には11番の方を振って欲しかったと思った。

なら11番はスベってないのか、というと僕はよくできた名曲だと思っている。しかし世間的は評価は分かれているようである。あまりに標題音楽的で身もフタもない、という意見と、標題音楽として迫るものがある、あるいはもっと、ただ音響的にカッコいいという意見まで耳にすることもある。

この曲はソビエト革命前夜をテーマにしてそれに基づいた表題が各楽章についていることや、革命歌や囚人歌が重要な主題として引用されていること、まるで映画音楽のようにまざまざと眼に映るような描写性の高さから、標題音楽とみなすのが一般的である。僕も初めて聞いたとき(中学時代にブラスバンドの友人から借りたレコードで)シーンごとに情景を思い浮かべたことを思い出す。

でも、この曲に澱のようにまとわりついた言葉を取り除いてみると、ショスタコーヴィチの音楽言語の巧みさと、それによる彼自身の自己実現の意志の高さが伝わってくるような気が僕にはする。

ショスタコーヴィチは止むに止まれずではあるけどソビエトプロバガンダ映画の音楽を大量に書いたおかげでオーケストレーションの技術は向上し、書きたい音楽が批判を浴びるせいで自分自身の中で迎合と内的欲求との折り合いをつけるやりかたを身につけていった。その集大成が前作の10番だった。

そしてそのあとの11番である。

2  交響曲第11番の大まかな構造

2.1  11番以前

古典的な交響曲ははっきりとした特徴的なモチーフから主題を組み立て、それをもとに全曲を構成するというのが普通である。しかしショスタコーヴィチは交響曲5番以降、そういう目立つモチーフとは別に、単なる伴奏音型や手癖指癖と思われるようななんでもない音符を使うことが増えていると僕は思う。曲によっては楽章の中で派手な第1主題がすぐ顧みられなくなったりする。

たとえば5番では次の音形
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が頻出する。これは最初伴奏にしか出てこなくてたまたまそういうリズムになったんだろう、と思えるんだけど、そういうリズムでなくてもいいと思えるような伴奏にも現れるのと、重要なテーマやその対旋律にリズムとして含まれることが何度も出てくる。だからどうした、というようなモチーフなのに深層意識に染み込むように織り込まれている。

それが10番になるともっと無意識下に沈んでいく。ほとんど別物のようにしか思えないテーマがどうというわけでもないような音階で結びついていたりする。

この11番も表立って目立つ部分と「無意識下に忍び込む」部分とが交錯するような作りになっている。長くなるかもしれないけど、それを説明しようと思う.....

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iMacのレスポンス低下とその対策 - その後 [日常のあれやこれや]

iMacのストレージをハイブリッドHHDに交換して1週間になった。金曜にシャットダウンして月曜朝立ち上げると、Illustratorの起動が驚くほど速くなっていた。これまではCCにしてからIllustratorアイコンをダブルクリックしたあと10分近くほったらかしにするしかなかったんだけど、月曜朝は数十秒でパネルが開いた。そもそもこれまでがおかしいかった、とは言えるんだけど、キャッシュの効果とフラッシュメモリ速さにあらためて感心した。

Illustratorへの文字入力でビーチボールが回ることもなく、快適になった。Illustratorファイルのスクロールや拡大縮小で現れていたビーチボールもめっきり少なくなった(CCにした直後は大きなファイルをうっかりちょっとスクロールしてしまうと10秒といった時間何もできなくなっていた)。ReadOnlyなファイルだけでなくちゃんとデータのファイルもキャッシュされているということらしい(いや、そりゃそうだろ)。ちゃんと測ったわけではないけどOSのブートや他のアプリの起動も速いような気がする。

この調子でMathematicaの計算が速くなってくれるとありがたいのだけど、もちろんそれはない。いっぽうでなぜかLaunchpadの文字入力に対するレスポンスはあまり変わらない。Launchpad経由で同じアプリを何度も起動することはないのでキャッシュが効かないのか、それともキャッシュとは別のところで律速しているのか(でもOS X10.11では普通に使えていた)。

交換したハイブリッドHDDのフラッシュメモリは8GBで、これは僕のiMacが積んでいるメモリと同じ容量で、ファイルシステムには結構大きなスワップができているので、正直にいうとあまり効果は期待できないんではないか、ひょっとして捨て金だったのではないかと内心、心配になっていた。つまりフラッシュメモリが小さすぎて、すぐ中身が書き換わってしまってキャッシュとして機能しないんではないか、と思っていた。どうやら杞憂でとりあえずほっとした。

なにが不思議と言って、Illustratorの終了も速くなったこと。これまではただシャットダウンするといつまでもIllustratorだけが生き残ったままで、30分たってもシャットダウンできない。終了するというかっこうしたまま死んでるとしか思えないんだけど、MacBook Proではそんなことはない。シャットダウンのときにまず他のアプリを終わらせて、ストレージアクセスがなくなったのを確認してからIllustratorを終わらせるという手順を踏むと正常終了できたので、iMacにかぎって最近はそうしていた。それでも1分以上、ひどいときは3分近く待たされた。たぶん次の起動のためにいろいろなパラメータを保存したり、キャッシュファイルを忙しく更新したりして、そのせいでスラッシングみたいなことが起こってるのか、と思っていた(キャッシュファイルのせいで遅くなるというのも本末転倒という気がするけど、おそらく他の部分で高い効果があるだろう。もちろんこれは皮肉だけど)。

ハイブリッドHDDに交換して読み出しは速くなっただろうけど、書き込みは変わらないはず(少なくともAmorphousDiskMarkの結果では変わらなかった)で、ではIllustratorは終了時に何をしてるんだろう。何かよくわからないけど、終わりぎわに書くよりもたくさんのファイルを読んでいる、としか思えない。何のためなんだろう。理解できない。

ということで、東芝のフラッシュメモリ部隊はシーゲートが買収すれば?

Eテレ「クラシック音楽館」 井上道義のショスタコーヴィチ [クラシック]

2月5日夜の放送。井上道義は僕の好きな演奏家なので彼が元気なのはうれしい。病気の前から頭髪が徐々に後退してたけど、とうとうなくなってしまったのはもともとルックスが良かっただけに残念である。でも若い頃からあった可愛らしさ愛らしさ憎めなさは変わらない。人柄だな。

ピアノコンチェルト1番ではアレクサンドル・ヴォロディンという若手というか中堅のピアニストが、ショスタコーヴィチのわざと鳴りにくい音を選んだかのような複雑な音符を事も無げに弾いていった。もう一人のソリストのトランペットはこれが私の仕事です、と言わんばかりに淡々としかも軽々と吹いた。それはこの曲では正しいし、とても良かった。

一方でヴォロディンのピアノはすごいんだけど、なんかもうちょっと違うものが欲しかったという感じがする。この曲のピアノにはトランペットと違って演奏家の個性が要求されているように僕には思える。それはアンコールに弾いたプロコフィエフでも感じられた。テクニックはすごいけど、どこか曲に答えられていない感じが残尿感のように僕には残ってしまった。

そのあとの交響曲12番。僕はこの曲がショスタコーヴィチの曲の中ではイマイチだと思っていた。その前の11番は一歩間違えば駄作になりかねないのを、無意識化に染み込むような緻密でしかも重層的な作り込みで、見かけとは違った方向に持って行った名曲だと思うんだけど、同じパターンで作った12番はそれが「スベった」感があって、ショスタコーヴィチにしては安易な感じが僕にはする。

井上道義はなかなか熱い演奏をしたんだけど、この曲のそういう表層的な面がかえって強調されたような気が僕にはする。これだったら僕としては彼の振る11番の方を聴きたかった。

Raspberry Pi用pigpio Library - その10 [Raspberry Pi]

pigpioライブラリの概観(その1その2その3その4その5その6その7その8その9)の続き。pigpioの話は今日でおしまい。いずれpigpiod_if2をmacOSに移植した話をしようと思うけど、それはもう少し先。

全部をひとつのpdfにまとめたものをここに置いておく。余計な話はなるべく省いたけど、細かいコメントのようなものまでを対象にすると結局書き換えないといけなくなるのでやめた。そのせいで日本語の解説としてみたらかなり冗長なものになってしまっている。そのあたりはごめんなさい。

今日はライブラリそのもののオーバーヘッドとクロス環境で使う場合の問題点について。

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