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ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その2 [クラシック]

「ショスタコーヴィチの交響曲第11番は名曲だ」説の後半。どうしても第1楽章は要素の提示が多いので指摘すべきことも多くなってしまう。今日は残りを一気に辿って僕の結論を示す....

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ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その1 [クラシック]

ちょっと前のことになるけど、井上道義の振るショスタコーヴィチの交響曲第12番の放送を聴いた。僕はこの12番には「スベった」感があるような気がしていて、これなら井上道義には11番の方を振って欲しかったと思った。

なら11番はスベってないのか、というと僕はよくできた名曲だと思っている。しかし世間的は評価は分かれているようである。あまりに標題音楽的で身もフタもない、という意見と、標題音楽として迫るものがある、あるいはもっと、ただ音響的にカッコいいという意見まで耳にすることもある。

この曲はソビエト革命前夜をテーマにしてそれに基づいた表題が各楽章についていることや、革命歌や囚人歌が重要な主題として引用されていること、まるで映画音楽のようにまざまざと眼に映るような描写性の高さから、標題音楽とみなすのが一般的である。僕も初めて聞いたとき(中学時代にブラスバンドの友人から借りたレコードで)シーンごとに情景を思い浮かべたことを思い出す。

でも、この曲に澱のようにまとわりついた言葉を取り除いてみると、ショスタコーヴィチの音楽言語の巧みさと、それによる彼自身の自己実現の意志の高さが伝わってくるような気が僕にはする。

ショスタコーヴィチは止むに止まれずではあるけどソビエトプロバガンダ映画の音楽を大量に書いたおかげでオーケストレーションの技術は向上し、書きたい音楽が批判を浴びるせいで自分自身の中で迎合と内的欲求との折り合いをつけるやりかたを身につけていった。その集大成が前作の10番だった。

そしてそのあとの11番である。

2  交響曲第11番の大まかな構造

2.1  11番以前

古典的な交響曲ははっきりとした特徴的なモチーフから主題を組み立て、それをもとに全曲を構成するというのが普通である。しかしショスタコーヴィチは交響曲5番以降、そういう目立つモチーフとは別に、単なる伴奏音型や手癖指癖と思われるようななんでもない音符を使うことが増えていると僕は思う。曲によっては楽章の中で派手な第1主題がすぐ顧みられなくなったりする。

たとえば5番では次の音形
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が頻出する。これは最初伴奏にしか出てこなくてたまたまそういうリズムになったんだろう、と思えるんだけど、そういうリズムでなくてもいいと思えるような伴奏にも現れるのと、重要なテーマやその対旋律にリズムとして含まれることが何度も出てくる。だからどうした、というようなモチーフなのに深層意識に染み込むように織り込まれている。

それが10番になるともっと無意識下に沈んでいく。ほとんど別物のようにしか思えないテーマがどうというわけでもないような音階で結びついていたりする。

この11番も表立って目立つ部分と「無意識下に忍び込む」部分とが交錯するような作りになっている。長くなるかもしれないけど、それを説明しようと思う.....

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Eテレ「クラシック音楽館」 井上道義のショスタコーヴィチ [クラシック]

2月5日夜の放送。井上道義は僕の好きな演奏家なので彼が元気なのはうれしい。病気の前から頭髪が徐々に後退してたけど、とうとうなくなってしまったのはもともとルックスが良かっただけに残念である。でも若い頃からあった可愛らしさ愛らしさ憎めなさは変わらない。人柄だな。

ピアノコンチェルト1番ではアレクサンドル・ヴォロディンという若手というか中堅のピアニストが、ショスタコーヴィチのわざと鳴りにくい音を選んだかのような複雑な音符を事も無げに弾いていった。もう一人のソリストのトランペットはこれが私の仕事です、と言わんばかりに淡々としかも軽々と吹いた。それはこの曲では正しいし、とても良かった。

一方でヴォロディンのピアノはすごいんだけど、なんかもうちょっと違うものが欲しかったという感じがする。この曲のピアノにはトランペットと違って演奏家の個性が要求されているように僕には思える。それはアンコールに弾いたプロコフィエフでも感じられた。テクニックはすごいけど、どこか曲に答えられていない感じが残尿感のように僕には残ってしまった。

そのあとの交響曲12番。僕はこの曲がショスタコーヴィチの曲の中ではイマイチだと思っていた。その前の11番は一歩間違えば駄作になりかねないのを、無意識化に染み込むような緻密でしかも重層的な作り込みで、見かけとは違った方向に持って行った名曲だと思うんだけど、同じパターンで作った12番はそれが「スベった」感があって、ショスタコーヴィチにしては安易な感じが僕にはする。

井上道義はなかなか熱い演奏をしたんだけど、この曲のそういう表層的な面がかえって強調されたような気が僕にはする。これだったら僕としては彼の振る11番の方を聴きたかった。

キット・アームストロング ピアノ・リサイタル [クラシック]

女房が注目している若手のひとり(世界的に売り出している若手はいちおう全部注目するらしい)キット・アームストロングのコンサートが昨夜浜離宮ホールであったので二人で行ってきた。
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不満はいろいろあるけど、若い人の演奏を聴くのはやっぱり楽しい....

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9月16日「マハン・エスファハニチェンバロ独奏演奏会」 [クラシック]

昨夜、女房と一緒にエスファハニというチェンバロ奏者の演奏会に行ってきた。銀座の王子ホールだったので会社が終わると速攻で電車に乗った。また例によって銀座の地下鉄の改札の中で迷った。

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けっこう面白かった...

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N響「スラトキンの武満」 [クラシック]

今夜のEテレ「クラシック音楽館」ではスラトキンが武満徹の「ファミリーツリー」を振っているのを聴いた。スラトキンが武満と懇意だったというのを初めて知った。キャラはお互いずいぶんと遠いような気がするけど。

この曲は谷川俊太郎の詩に武満徹が曲をつけたもの。でも歌にはなっていなくて少女が語ってそれにオーケストラが伴奏するという武満には珍しい形式になっている。

谷川俊太郎の、いっけん優しそうだけどどこか酷薄な言葉が少女の口から語られると、幼さによる残酷さと、自分とは無関係な地平への憧れのようなものが同居する不思議さが現れるように僕には思える。武満がこの曲でいかにもそれを狙ったように僕には思えてくる。

でも、それに覆いかぶさる武満の音楽はそれに従うように優しげで柔らかく聴こえるけど、ずっと鳴り響くということはなくて、短いかたまりにブツブツと途切れる。まるで語り尽くすのを嫌っているのか、武満の柔らかい和音は空気の中に溶けていってしまって、鳴り続けることを拒否しているかのように響く。ひとつのフレーズはすぐ休符に取って代わられる。そして音のない空間がこまぎれに頻繁に現れる。

武満の晩年の曲にそういうのは多いような気もするけど、この曲は僕にはとくにそう思える。本来は言葉に寄り添うはずの音楽が、断定を避け、語尾を曖昧にし、結論を遠ざけようとしているように聴こえる。それはいかにも日本的な言語構造に思えるけど、この曲で少女によって発せられる言葉とは矛盾しているように僕には聴こえる。

武満の真意は何だったのか、はもう誰にもわからない。それは彼と懇意だったというスラトキンにとっても同じである。生き残った我々はああもあろ、こうもあろ、と思いめぐらすのが関の山である。

Eテレ「クラシック音楽館」ヤルヴィ・ゲルネの「亡き子」 [クラシック]

ついさっきEテレの「クラシック音楽館」でパーヴォ・ヤルヴィがN響を振ってマチアス・ゲルネのバリトンでマーラーの「亡き子をしのぶ歌」を聴いた。ヤルヴィは全世界のオーケストラを振っていてネット配信では盛んに流れている(よその国では音質は別にして実況を太っ腹にタダで流すところがたくさんある)ので、生を知らなくても聞く機会がやけに多い....

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バーミンガム市交響楽団音楽監督交代 [クラシック]

今朝プリキュア新シリーズ第1回を見ながら、物理演算が精密になるとパラメータ設定の不自然さが強調されるなあ、なんて思ってたら、横で女房が「お」とか言ってニュースを見つけた。バーミンガム市交響楽団の音楽監督にMirga Gražinytė-Tylaが就任するという。ネルソンズの後釜ということになるが、それがなんと30歳前の女性でうちの娘と同い年である。

若手は起用する側からすればバクチの要素もあって当事者たちにとっては難しいこともあるだろうだろうけど、僕みたいな単なるファンにとって若い人の抜擢は楽しみである(老大家の名演奏なんて退屈なだけ)。例えば、もちろん録音でしか知らないけど、そのバーミンガムでのラトルやシモン・ボリバルのドゥダメルは面白かった(今どうかは別にして)。

ところで、この人、苗字はどう発音するんだろう。またしばらくはいろんなカタカナで書かれたのが氾濫するんだろうな。それと、例えばここにあるようなショートのおねえさんは僕好みである。

オスモヴァンスカ、ミネソタ管 [クラシック]

今日のお昼間、たまたま女房がインターネットラジオで鳴らしてたヴァンスカとミネソタ管弦楽団のベートーヴェン交響曲7番のライブの実況を聴いた。遠いアメリカミエアポリスでの演奏がほぼリアルタイム(せいぜい1秒程度の遅れ)で聴けるなんて素直に驚いてしまう。インターネットってすごいな。ただし、もちろんリアルタイム音声圧縮なので音はそれほど良くはない。でも僕は「ハイレゾでなければ聴く気がしない」なんていう、思考力が圧縮されたようなやつみたいなことは絶対言わないので、音楽がわかるレベルであれば全く問題ない。

僕の昔のイメージではミネソタ管なんてド田舎の下手くそオーケストラだと思ってた。ところがとんでもない、その演奏がまったく素晴らしかった....

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Eテレ「クラシック音楽館 リントゥ・フィンランド放送交響楽団」 [クラシック]

女房が夜、慌てて風呂から出てきた。この番組を見るというか聴くためだった。フィンランド放送交響楽団がサントリーホールでハンヌ・リントゥというごついおっさんの指揮のシベリウス尽くしのコンサートの実況録画。フィンランディアをやってそのあと諏訪内晶子のソロでコンチェルトで、そのあと交響曲の第2番という、シベリウスの有名曲の上から三つとりました、というような構成。

女房はつい一昨日、ヴァンスカ読売日響でこのコンチェルトを聴いてそれが良くなかったという。僕はなんで一緒じゃなかったんだろう。まあ、それはいい。よくないけど。

諏訪内晶子は、十分やり慣れた曲なんだろう、特に1楽章ではニュアンスたっぷりのソロを弾く。そのあともひとつひとつの音に何かしらのニュアンスがついていて濃密というのではないけど、聴いていてそこそこお腹いっぱいになる。そのニュアンスがなんだか僕にはすごく日本的に聴こえた。まるで演歌を聴いているみたいな気がした。面白い。

シベリウスと日本人との相性の良さはときどき言われるけど、なんかシベリウスにはそういうコブシの乗せやすさとか、歌わせやすさみたいなものがあるような気がした。ヨーロッパ人たちはどういう風に感じるんだろう。
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