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「作者の言いたかったこと」 [日常のあれやこれや]

小中学校のころ、文章を読んで「作者の言いたかったことは何でしょうか」「作者の意図を述べなさい」という国語の設問があった。僕には難しかったけど、秀才に言わせると「関係ない文章を除いていって最後に残った文が答え」であるという。そしてそれがたいてい正解だった。

確かにそのアプローチはそれなりに正しくて、国語の問題だけでなく、例えばドストエフスキーの小説のような長い作品であっても、同じことをすると「作者の言いたかったこと」に到達できる可能性は高い。もちろんドストエフスキーでは取捨選択に膨大な作業が必要になるけど。

ただし作品によっては、例えばカフカの多くの小説のように、「関係ない文章を除いていく」 という取捨選択の結果、何も残らないということもある。それは「作者の言いたかったこと」が言葉として表現されていない、あるいは言葉で表現できない、という場合である。そのような作品に対しては件の秀才アプローチは失敗する。

しかしそういう作品であっても、さらには小説だけでなく音楽や絵画、あるいは映画とかにも「作者の言いたかったこと」は厳然と存在していて、言葉の有る無しに関わらず、作者自身がその「言いたかったこと」をどのくらい真摯に考察したかによって、どのくらい受け手の心に響くか、が違ってくる。僕はその姿勢のことをちょっと大げさに「作家の真実」と呼んでいる。

そして、取捨選択で何も残らないもうひとつの場合がある。つまり「作者に言いたいことがなにもない」という場合である。そういう作品には「作者の言いたいこと」が本当に無いのか、というと実はそうではなくて、あえて表現してみると、「この作品を売りたい」あるいは「これを当てたい」「これで儲けたい」という「メタ」な意図であることが多い。小説よりも音楽、さらには映画と、製作に費用がかかる作品ほどそういった「メタ」な意図による作品が多いような気が僕にはする。

そしてそういう「メタ」な意図のみから作られた作品の場合、作品の各部分はすべてがその「メタ」な意図に奉仕するよう設計され、その効果が最大になるように最適化される。そういう作品に接した受け手は作品が精巧に作られている、という印象を強く感じる。そしてそしてそういう作品はたいてい実際に精巧なものである。が、受け手の心に響くかどうか、はそれとは別次元の問題である。

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先日、新海誠監督の「君の名は。」の地上波放送を見て。
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