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読響第574定期 [クラシック]

うちの女房お気に入りのカンブルラン読響の定期演奏会をふたりで聴きにいった。

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なかなか面白かった.....

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またmacOSがやらかした [日常のあれやこれや]

macOSのシステム環境設定でAppStoreの変更ロック解除パスワードがザルというバグが見つかった。僕も試してみたらどんな文字列を入れてもロック解除できた。システム環境設定の他のロック解除はとりあえずはちゃんと動いているようである。

これはすなわちシステム環境設定の左下にある鍵アイコンが単なるUIの共通化の役割しかしていない、ということである。ついこないだのrootパスワードのバグもひどかった。これも直接の影響は少ないとは言え、同じような超低レベルのバグであることは間違いない。

本来、権限取得譲渡のメカニズムは分散すべきではなく、ボトルネックでなければならない。例えば、unixの設計思想ではsetuid/setgidというシステムコールがそのボトルネックの役割を果たしていた。macOSでは必ずしもそうなっていない、ということが2回続けてバグが発覚したせいで白日のもとに明らかになった、と言える。

これは「バグ」というような生易しいものではない。システムの根幹に関わる設計思想の問題である。一方でLLVMClangという超強力な技術をバックにswiftを作り出して、ついにメモリリークフリーの世界を実現するかのような先端的なAppleの動きとの大きなギャップを、僕としては感じてしまう。

こういうほころびって僕には、優良企業が怪しくなる端緒というか兆しというか前触れに見える。思い起こせば前いた会社が十数年前、こう言うのが小さいながらもいっぱいころがってた、という気がする。いや、その会社は今でも存在してるけど、ね。
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溜飲を下げる [日常のあれやこれや]

ちょっとした思いつきで去年暮れから休み返上で1ヶ月以上ずっとやってる計算を、アプリケーション側の専門家の人たちから何の意味もないと言われて、しかもそれを別の場所でそれぞれ独立に言われてかなりへこんでいた(僕自身は今でもそれに意味がないとは思っていないけど)ところへ、今日は会社でそれとは別のムカムカすることがふたつ同時に重なった。

実はさっきまでその話をここに書いてたんだけど、さすがに憚られる内容だと思ったのと、こんなことを書いて溜飲を下げるのはやっぱり大人げない、と思うので結局全部消してしまった。

そんなわけで今日はさっさと会社から帰ってきてダラダラしながら平林さんの記事を読んだ。阪大の入試問題の問題ってこういうのだったんだ。知らなかった。問題としてはなかなか面白い。音叉が作る音の場ってモノポールの場にはならないのはそりゃそうだろうと思うけど、ダイポールでもないんだ。素直にじっくり考えればそうだよな。

壁での音の反射とミラーでの光の反射は違うと言うのもちょっと考えればそうだよな、と思えるんだけど、この出題のように書かれると、僕はずっと光の場ばかり30年間も考えてきたので、ついどんな波も光と同じだと思ってしまう。こういうのって年寄りにありがちな一種の思考停止で、改めて僕は縦波をわかってない、と言うことに気づかされた。面白かった。

おかげでちょっとムカムカの気が晴れた。
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「作者の言いたかったこと」 [日常のあれやこれや]

小中学校のころ、文章を読んで「作者の言いたかったことは何でしょうか」「作者の意図を述べなさい」という国語の設問があった。僕には難しかったけど、秀才に言わせると「関係ない文章を除いていって最後に残った文が答え」であるという。そしてそれがたいてい正解だった。

確かにそのアプローチはそれなりに正しくて、国語の問題だけでなく、例えばドストエフスキーの小説のような長い作品であっても、同じことをすると「作者の言いたかったこと」に到達できる可能性は高い。もちろんドストエフスキーでは取捨選択に膨大な作業が必要になるけど。

ただし作品によっては、例えばカフカの多くの小説のように、「関係ない文章を除いていく」 という取捨選択の結果、何も残らないということもある。それは「作者の言いたかったこと」が言葉として表現されていない、あるいは言葉で表現できない、という場合である。そのような作品に対しては件の秀才アプローチは失敗する。

しかしそういう作品であっても、さらには小説だけでなく音楽や絵画、あるいは映画とかにも「作者の言いたかったこと」は厳然と存在していて、言葉の有る無しに関わらず、作者自身がその「言いたかったこと」をどのくらい真摯に考察したかによって、どのくらい受け手の心に響くか、が違ってくる。僕はその姿勢のことをちょっと大げさに「作家の真実」と呼んでいる。

そして、取捨選択で何も残らないもうひとつの場合がある。つまり「作者に言いたいことがなにもない」という場合である。そういう作品には「作者の言いたいこと」が本当に無いのか、というと実はそうではなくて、あえて表現してみると、「この作品を売りたい」あるいは「これを当てたい」「これで儲けたい」という「メタ」な意図であることが多い。小説よりも音楽、さらには映画と、製作に費用がかかる作品ほどそういった「メタ」な意図による作品が多いような気が僕にはする。

そしてそういう「メタ」な意図のみから作られた作品の場合、作品の各部分はすべてがその「メタ」な意図に奉仕するよう設計され、その効果が最大になるように最適化される。そういう作品に接した受け手は作品が精巧に作られている、という印象を強く感じる。そしてそしてそういう作品はたいてい実際に精巧なものである。が、受け手の心に響くかどうか、はそれとは別次元の問題である。

.....

先日、新海誠監督の「君の名は。」の地上波放送を見て。
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