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なぜ私は私なのか [日常のあれやこれや]

ある人のツィートを見て思い出した。僕は子供の頃、たぶん6、7歳ごろだと思うんだけど、僕はなんで「私」という肉体に閉じ込められているのかと不思議に思っていた。

「私」という肉体が生まれる前に僕はなんだったのか、「私」という肉体が死んだあと僕はなんになるのか、いつも僕は「私」という覗き穴からしか外を見ることができないんだけど、それはなんでなのか。そもそも「外」とはなんなのか。僕じゃないものは、ではいったいなんなのか。


五十年以上経ってなんとか言語化できるけど、当時はただ「???????」だった。当然親や友人に質問するなんてことはできなかった。質問するためには言葉にしないといけなくて、それが当時の僕にはまったくできなかった。

10歳を過ぎて中学生になると疑問の形が少し変わってきた。「私」とよく似た「他の人」がいる。それはもちろん僕ではなくて、僕とは無関係な独立した存在らしい。なぜなら彼らが見ている覗き穴を僕が見ることができないからである。そもそも彼らが僕と同じように「私」という覗き穴から外を見ているのかということさえ僕にはわからない。ひょっとすると僕以外は違った方法で外を見ているのかもしれない。彼らは僕のことを肉体に閉じ込められたかわいそうな存在だと哀れんでるのかもしれない。

それとも「他の人」は僕と同じようにそれぞれの「私」という肉体に閉じ込められた人なのか。僕と同じような存在だとすると、では、なぜそれが僕ではないのか。僕が僕であると言う感覚は僕以外には持てないのではないか。なぜならそれは僕ではないわけだから。

もちろんそう言う問いも当時はどう訊けばいいのかわからなかったので、級友なんかに投げることはなかったけど、それを悩み続けているというわけではなく、何かのきっかけで思い出しては考えながらぼーっとしてるというような状態だった。

普通の人はこう言う疑問はもっと早いうちに持って、そのうち忘れてしまうんだろう。僕はなんでも遅かったので、中学になってもこんなことを考えていた。

ずっと後になって似たような哲学的な設問があることを知って、あんがい哲学もアホやな、と思った。

いまはどうかというと、それは「自意識」あるいは「自我」というものであって、進化の結果獲得した個体を維持したり制御したりということに有効な生物としての機能だと考えている。つまりは魚が水中で呼吸したり、鳥が羽で空を飛んだり、というのと同じである。右手と左足が勝手なことをしないように、あるいは指を失ったらその後不便で個体維持に支障をきたすから、肉体に対する一体感と他者との峻別のために意識が進化した、と思っている。

つまり子供の頃思っていた「私と言う肉体」と「僕」との関係は、実は逆だった、ということになる。それが感覚として受け入れられにくいというのも進化の結果だろう。個体維持には不利な材料だからである。

だから安心して死ねるか、というとそれは全然別だけど。

「水屋になおしといた片身の鯖、あれが心残りで」
これは落語「地獄八景亡者戯」の最初の登場人物が、死んで何が心残りかと問われて答えた言葉。「水屋」は関西弁で台所の戸棚のこと。彼はその鯖の半身にあたって死んだ。彼は鯖が好きだったのでどうせ死ぬなら全部食べてから死にたかったと言う。

僕も死んだらこうありたい。死んだ後には言えないのが残念だけど。
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