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日曜美術館「魂こがして 青木繁」再放送 [日常のあれやこれや]

今夜の日曜美術館は青木繁の再放送だった。出演者の石橋凌は僕と同い年だけど、キャラは暑苦しく僕には彼の言うことが理解できなかった。青木繁の代表作「海の幸」をわざわざパリまで見に行きながら団子のように固まった感慨があるだけなのは、僕にはツッコミが足りないとしか思えない。ブリジストンで見るのと何が違うんだよ。違うわけないだろ。

僕は「海の幸」が傑作なのはそこに日本人の呪術性が描かれていることだと思っている。番組の中で神輿を担ぐ男たちとの類似が語られていた。僕はまさしくその通りだと思っている。

絵に描かれた裸の男たちは漁の成果を喜んでいるようには見えない。むしろ整然と、粛々とまるで儀式を遂行しているかのように見える。儀式はもう終わるところなんだろう、男たちには呪術的儀式を滞りなく終わらせた充実感と疲労を見ることができる。いくら未開の漁村であっても全裸で漁をすることはありえない。全裸はすなわち禊(みそぎ)である。また彼らが担いでいる獲物は漁の成果ではなく、儀式の小道具であって、つまりは神輿のようなものである。

日本には季節に従った風習が残っている。節句ごとの家庭内のお祭りや正月彼岸土用や何々供養のたぐいは今でも商業主義と相まって日本人の生活に根付いている。日本人のほとんどはなんのためにあるのかわからないのに、そう言うしきたりになんとなく従っている。「敷居を踏む」「夜に爪を切る」なんていう小さなことでさえ今でも気にする人はするけど、日本人以外にはまったく意味不明である。

また「恵方巻き」のようについ最近になって企業論理に基づいて作られた物でも、なんとなくそんなものかな、と思ってしまうのは、日本の風習にありがちなパターンに馴染みがあるから受け入れられやすい、ということだと思える。

そう言う風習の多くには本来ちゃんとした起源があって、大抵呪術的な意味があった。しかし今ではその本質は忘れ去られて形だけが残ったものがほとんどである。

青木繁の「海の幸」はそういう日本人の意識されない呪術的儀式を描いたもののように僕には思える。青木繁本人も意識していたとは思えない。だからよけいに日本人がこの絵を見ると普段は気がつかないけど何百年もの習慣から染み付いた根深い澱のようなものを感じてしまうんではないか、と僕は思っている。

また例によって僕の勝手な解釈。フランス人がそれをどう見たか、は僕にはわからない。
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