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ショスタコーヴィチ交響曲11番について - その2 [クラシック]

「ショスタコーヴィチの交響曲第11番は名曲だ」説の後半。どうしても第1楽章は要素の提示が多いので指摘すべきことも多くなってしまう。今日は残りを一気に辿って僕の結論を示す....

2.2.2  第2楽章

第1楽章からのattacca(休みなしに演奏する)で、第2楽章はアレグロのこんな低音で始まる。
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速いのでわかりにくいけど最初の3音は「ティンパニのテーマ」の音程そのものである。音域が圧縮された感じのフレーズが続いてすぐに主題が現れる。
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このテーマは自作の合唱曲「おお、皇帝我らが父よ」というの引用らしい。あきらかに頭の低音のフレーズはこの主題を、音域と音価を圧縮したものだということがすぐわかる。主題の方ははっきりとした普通の7音階(短3度音階ではなく変化記号がつかない)のト短調の自然短音階であるが、頭の低音フレーズのほうはハ音を基音として書くと
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のようなオクターブに8音あるディミニシュな短3度音階でできていて、ティンパニのテーマもこれに当てはまる。このデイミニッシュ音階は第10番にも盛んに出てきたが、10番では短-長の繰り返しが逆の長-短になっていて、基音に対して長3度の音程はない(11番の方には他の半音もフレーズには含まれていて、10番ほど音階がはっきり指摘できるわけではないけど)。

この二つが楽器を変え調を変えて何度も繰り返されてだんだん音量を増していく。途中で第1楽章の信号ラッパがフォルテで鳴らされたりする。そしてついにトランペットが主導するトゥッティ(シンバル付きで)に突入する。
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これは本来主題の確保(決然とした形で主題を提示し直して主題であることを主張し、聞き手の印象に残す)のためのトゥッティであって、機能的にもそれに近いんだけど、メロディラインは主題の素直な自然短音階ではなくて、1小節目のコントラバスとまったく同じ、すなわち「ティンパニのテーマ」のディミニッシュ音程になっている。しかしトランペットの長調3和音の輝かしい音色のせいか、それには「フェイク」「にせもの」な感じはない。そして全体像を示す前に転調を繰り返してディミヌエンドしてしまう。

音楽はまた混沌とした変形の繰り返しに戻っていく。その途中でこのテーマが現れる。
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これはやはり自作の合唱曲からの引用で「帽子を脱ごう」という歌らしい。しかし断片がそこかしこに現れるだけで全貌を知ることはできない。

途中に3/4拍子で8分音符の新しい要素(これも何かの引用っぽく聴こえるがよくわからない)が導入されながら執拗とも言える変奏と繰り返しを経て、とうとうフォルテシシモ(fff)つきで「おお、皇帝我らが父よ」が完全な形で(本来の自然短音階で)再現される。さんざっぱらじらしたあとの満を持しての登場で、安易だとは思いながらもカタルシスがある場面である。数少ない要素から変奏に変奏を重ねてゆっくりと盛り上げていくこの部分の作曲技法は、あきらかに映画音楽を量産したおかげで得られたショスタコーヴィチの特殊技能である。

「帽子を脱ごう」の断片がホルンで出たあとゆっくりゆっくりディミヌエンドしていって、広場のテーマが木管で鳴らされる場面に到達する。ティンパニのテーマが2度上でそのままの形で再現されて、信号ラッパのカノンが続く。

そして突然、スネアの速い3連符で全然違うシーンに切り替わる。
ここでのテーマは
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コントラバスとチェロのユニゾンで始まり、これをテーマにした長大なフーガに発展する。このテーマはティンパニのテーマの8分音符版であることは注意深く聴いていればすぐわかるものである(長短両方の音程を含んでいる)。

このテーマが転調されたり引き伸ばされたりして繰り返されてトロンボーンのグリッサンドによる咆哮を伴ってクライマックスに到達しようとする。ここの部分も映画音楽的で、録音されたものをここだけ取り出して聴いたりすると「あまりにあまり」「オーバーアクション」「やりすぎ」という感じがしてしまう部分ではあるが、オーケストラを意のままに鳴らし盛り上げる手練れた作曲技法に感心してしまう。

そしてその頂点で突然、3連符が現れてティンパニのテーマがフルオーケストラで鳴らされる。そのあと銅鑼と大太鼓と小太鼓の4小節コンパスのフレーズが繰り返されて、その上にフォルテシモのトゥッティで3連符のシーンに繋がる。これは広場での民衆に対する一斉射撃であるとされる有名な場面である。
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この音符をよく見てもらいたい。なんとこれは「広場のテーマ」の最初の部分を長3度上げ(ト短調→ロ短調)て3連符に区切ってフォルテシモにしたものであることがわかる。第1楽章での軋むような長7度音程は、ここではこのB音だけトランペットが3連符から離れた長い音符を吹いて、それが悲鳴のように聴こえる。

ショッキングな描写性に目を(耳を)奪われて、一度聴いただけで「広場のテーマ」の変形であるに気がつくことはまずないが、長7度の衝突は潜在意識に書き込まれるような気がして、このあと「広場のテーマ」が帰ってくるたびにこのシーンを連想することになる。またそこに単なる音響効果を超えた「何か」を聴く者に感じさせる部分でもある。

ひとしきり3連符が連続したあと、「帽子を脱ごう」に引き継がれて突然アダジオのピアニシモになる。「広場のテーマ」がトリル付きで再現されて信号ラッパ、「聞いてくれ」の断片、応答する信号ラッパと広場のもう一つのテーマ、最後に「ティンパニのテーマ」でこの楽章を終わる。

2.2.3  第3楽章

またattaccaで始まる第3楽章は「君は英雄的にたおれた」という革命歌が主題に使われている(なんちゅうタイトルじゃ)。
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この歌もこれまで引用されてきたメロディと同じで変化記号の出てこない7音階だけでできている。はっきり言えば素人臭いほど工夫のない退屈なメロディである。ヴィオラの単音のメロディにチェロとコントラバスのピチカートの伴奏がついているが、この伴奏ではアウフタクト付きの主題が始まるその小節で「ティンパニのテーマ」とまったく同じ音(G、B、Ces)が鳴る。

主題がひと段落したあとまた弱音の信号ラッパに先導されてクラリネットが3連符の下降音形を吹く(F E D Cis)が、これも「ティンパニのテーマ」の長短が含まれたフレーズである。もういちいち音符を書かなくても聴くだけでわかるはずである。

クラリネットの3連符下降音の最後が革命歌「こんにちは、自由よ」に接続する。
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このメロディはこれまでの引用歌と違って大きな転調(4小節目イ長調→5小節目ニ短調など)が含まれるが、元曲がこうだったのかはよくわからない(このままの伴奏なしではめちゃ歌いにくいので、ショスタコーヴィチの改変ではないかと思う)。

「こんにちは、自由よ」が繰り返されてゆっくりゆっくり盛り上がっていくところは映画音楽作曲家の面目躍如とした音響的に美しい場面である。そしてクライマックスを迎えると、突然ティンパニに3連符の遅いリズムが現れる。フォルテのまま「帽子を脱ごう」が取って代わり、ティンパニの3連符だけが残ったあと、弦楽で「ティンパニのテーマ」の音程が繰り返される。減5度音程を含むように展開されたあとゆっくりディミヌエンドしていって短い「君は英雄的にたおれた」の再現があって、またattaccaでフィナーレに繋がる。

2.2.4  第4楽章

突然金管のフォルテシモのユニゾンで始まる。
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これはやはり革命歌「圧政者らよ、激怒せよ」とのことである。いかにもそれっぽいくさび形の付点音符が並ぶ勇壮な、しかしどこか紋切り型で武張ったエラそうなメロディである。これをきっかけにして弦楽がユニゾンで付点音符の連続する長い応答を鳴らす。この応答はディミニッシュな音階でできていて、「ティンパニのテーマ」がこだまのように含まれているように聞こえてしまう。

第2楽章の始めのように繰り返し変形しながらゆっくりクライマックスに向かおうとするその中で「帽子を脱ごう」がホルンとトランペットで鳴ると徐々にディミヌエンドしていって音程も下がっていく。そして第2主題となるような
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が弦楽で鳴らされる。これは「ワルシャワ労働歌(ワルシャヴィアンカ)」という歌らしい。が、リズムは第1主題の「圧政者らよ、激怒せよ」とまったく同じ(アウフタクトがないだけ)でほとんど区別がつかない。

このあとまた延々とした繰り返しと変形でゆっくりとクライマックスに向かう。そこでまた別の引用があるが、新しい要素には聴こえず、同系統色で塗りつぶされている感じのままである。

そして突然3連符を持った例の信号ラッパがトランペットのフォルテで出現する。付点音符ばっかりだったところに3連符がすごく異質なもののように聴こえる。

それをきっかけにするけどそのあとも長い時間をかけて3連符が支配的になっていって、「おお、皇帝我らが父よ」がフォルテシシモ(fff)のトゥッティでそのひとつめの音が3倍の長さに引き伸ばされた形で現れる。ここはショスタコーヴィチが曲のクライマックスでやるトゥッティの宣言和音とユニゾンのメロディの交代で、「またでました」感がかなり強い。それがひと段落すると銅鑼の一打のあとピアニシモの「広場のテーマ」が帰ってくる。

「広場のテーマ」に乗ってイングリッシュホルンが「帽子を脱ごう」をゆったりと歌う。ここで初めてちゃんとしたメロディとして全貌を現すことになる。そして長いソロは「おお、皇帝我らが父よ」にそのまま接続してこのふたつが実は一体のものであったことが示される。

このあとバスクラリネットで第2楽章冒頭の「おお、皇帝我らが父よ」の変形がずっと続いて徐々に音量を増していく。

「帽子を脱ごう」がホルンに現れ、弦楽に移ってフォルテシモのトゥッティになだれ込んでいく。「帽子を脱ごう」がどんどん変形していってリズムまで解体されて、最後はトゥッティのユニゾンGの中で鐘が「ティンパニのテーマ」の音程を打ち鳴らして終わる。

このフィナーレでは、くさび形の勇ましい主題がクライマックスを迎えたあとは、普通のソナタ形式なら本来主題の再現が来るはずのところだけど、「おお、皇帝我らが父よ」と「帽子を脱ごう」に完全に取って代わられて、くさび形主題の提示とその展開はまるで長い長い序奏だったみたいに、結論には一切関与しなくなる。こういう構造はなんだかすごくショスタコーヴィチらしく思えてしまう。

2.3  全体の俯瞰

長々と書いてきたけど、ようするになにが言いたいかというと、交響曲全体はキャッチーな革命歌と、この曲独自のモチーフとの2層構造になっている、ということである。

引用された革命歌は当時のソビエトの人たちにはメロディが鳴るとその歌詞が頭に浮かぶほど慣れ親しんだものだったという。交響曲の複雑な語法に通じていない人でもそれが出てくれば「あ、知ってる」というようなものだったんだろう。極端に言えばこれらの革命歌はこの曲の中では、音にびっくりさせて注目させる、バナナの叩き売りのハリセンみたいなものである。

「さあ!(パン!)もってけどろぼう!」

聴き終わってから思い出せばこれらの革命歌はほとんどれもそれぞれの楽章に縛り付けられていて、その場では派手な主役を張るけど、その場が終われば出番はなくなってしまうことがわかる。

その一方で、半音階が含まれていたり、普通の7音階では出てこないような音程、それはすなわち「ティンパニのテーマ」だけど、またあるいは3連符のオスティナート、そういった音たちは深いところで手をつなぐようにして関連づけられ、全曲のいろいろなところに顔を出す。

2.3.1  具体的な指摘

もう少し具体的に書くことにする。

まず重要な要素としてふたつ、3連符と短長音程の組み合わせ
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がある。3連符なんてどこにでもあるし、どんな作曲家でも使う当たり前のものなので、それが重要だといったらなんでもかんでも重要になってしまう、と言われるかもしれない。しかしショスタコーヴィチの、特にジダーノフ批判以降の作品はなんでもない音形が重要な位置を占めていることが増えているように僕には思える。最初にあげた5番のゆるいシンコペーションのリズムがその典型である(ちなみにこの5番のシンコペーションの重要性は間違いないと僕は思ってるんだけど、同じ指摘をよそで読んだことはない。僕の思い過ごしなんだろうか)。

この曲では3連符は通常の8分音符や4分音符と拮抗していつも緊張した状態で鳴っている。

そして、おもなモチーフ。実質的にふたつしかない。
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ひとつは重要な要素「3連符」と「短長音程」から「ティンパニのテーマ」ができていて、それはディミッシュ音階への変形を経由して「おお、皇帝我らが父よ」につながっている。

またもうひとつのグループ、第1楽章に出てきた「静的な緊張」とでも呼べる断片、「広場のもうひとつのテーマ」、「信号ラッパ」と「応答し合う信号ラッパ」は同音反復という特徴を引き継いだ「帽子を脱ごう」につながるようにできていて、フィナーレでは交換しあう。

そして「おお、皇帝我らが父よ」と「帽子を脱ごう」は先に書いたようにフィナーレの後半、イングリッシュホルンのソロの最後で繋がって、それ以降は融合して曲の最後になだれ込む。

このふたつのモチーフの変化のようすが、解像度を最も下げて見たときの曲の流れだと言っていい。


そして「広場のテーマ」。
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これは全体の背景として遍在する。特に第1楽章ではその描写性が強調される。そして「一斉射撃」で描写性の頂点に達したあとは、小さな変形(トリル付きになったり木管になったり)を重ねながらうつろっていき、描写性は減退して「一斉射撃」のエコー、あるいは忘れられない記憶として繰り返される。ただしこの位置付けの変化は聴き手の心理にも依存しているので、そうには聴こえないというひともいるかもしれない。

これらは全ての楽章に現れて、曲の構造を形作る。どれも輪郭がはっきりしないまま、どんどん変奏され変形していき、表情は変わっていくけど、同じイントネーションを保ってどこか共通するものがある、という印象を与える。これは凡庸な映画音楽作者には無理な仕事で、ショスタコーヴィチがリムスキー=コルサコフやグラズノフといったロシアの作曲家だけではなく、ワーグナーやマーラーの直系の子孫であって、音楽の歴史を背負った天才作曲家ならでは、という気が僕にはする。

それら全体は曲のそれぞれの部分部分がバラバラに分かれて浮遊してしまわないように機能し、硬い地面のようなものへ聴き手を導くことになる。

一方で引用された革命歌は前に書いたようにその場その場での「看板」のような役目を果たしている。とくにくさび形音形を持っている「夜は暗い」「圧政者らよ、激怒せよ」「ワルシャヴィアンカ」はあまり大きな変奏(変形)はされず、現れるといつも同じ顔をしている。隈取り深く声は大きく、聴き手を威圧する。態度はでかいが、融通無碍な独自モチーフのなかでは、ぽか、とした浮島のようにも感じる。

3  結論

描写的、映画音楽的、冗長、豊かで的確なオーケストレーション、といったこの曲の特徴は彼が糊塗するためにプロパガンダ映画の音楽を量産した結果身についた技術と無関係ではない。彼にとって、お上のご意向に逆らわず、自分と家族が生き延びることが最優先であって、その技術はなによりも望ましいものだった。

しかしそれだけではただ権力によって消費されるだけで、いずれ身も心もすり減ってしまう。したがって自分自身の内的な必然性と折り合いをつける技術も必要になった。その成果の集大成が10番だった。それは良くできていて、けっこううまくいったように思えるけど、舌足らずで言いたいことを言い切れていないところがあって、もっと違ったことの必要性も感じた。よし、こんどはもっと振幅を大きくしよう、とショスタコーヴィチは思ったのではないか、と僕は考えている。

ショスタコーヴィチは心に反骨を秘めた人物のように言われることもあるけど、僕はそうは思わない。自分がいつ粛清されるかわからない状況で、音楽を書くことでしか満足が得られない自分と、家族を含めた身の安全との両立に苦しみながら模索した結果が作品として残っているのである。

音楽を書かずにはいられない、書くことしかできない、書いている間はそれがどこに向かっているのか自分でもわからない、そして出来上がっても何が出来上がったのか正確にはやはり自分でもわからない。しかしこの11番の出来にショスタコーヴィチは10番とは違った満足を得たはずである、と僕には思える。

ショスタコーヴィチほどの極限状態ではないにしても僕らは彼と同じように自分と家族の安全を優先して自分自身との折り合いをつけながら生活している。ショスタコーヴィチのように作品を残すわけではないけれど、仕事に追われ生活に追われながらも、努力した自己実現の成果が僕らの仕事や生活の中に含まれているはずである。疲れてへろへろになりながらも「やったな」と思う瞬間は僕らにもある。

ショスタコーヴィチは権力に音楽で対抗した英雄でもなければルサンチマンにとらわれた卑屈な人物でもない。あるいは単なる作曲職人でもない。ましてや権力に迎合してプロパガンダを垂れ流した人物でもない。

ショスタコーヴィチは音楽の天才ではあったけど、その内面は僕らとなにも変わるところはない。僕らは彼の音楽を虚心に聴くことで、彼の「僕らと変わらない」ところに無意識のうちに共感を感じながら、そういう彼の音楽に励まされて、さあ次も頑張ろう、と思うのである。
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