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「宇宙は「もつれ」でできている」読了 [読書]

ルイーザ・ギルダー著、山田克哉監訳、窪田恭子訳、ブルーバックス。
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部分的にはそこそこ面白かった。いや、変な感想だな。いいんだか悪いんだかわからない.....

この本は1905年のアインシュタインの光量子仮説から始まって「ベルの不等式」とその実験検証をクライマックスに、最後は量子コンピュータと量子暗号にたどり着く量子力学の歴史を追っている。特に粒子性と波動性の問題、観測問題、タイトルにもある「もつれ」の現象を中心においていて(ちなみに場の量子論や素粒子論の劇的でかつメチャ難しい話は完全に無視されている。まあ、主題に集中するという意味では正しいあつかいだけど、物理学の偉い人たちが大勢現れるのにヨルダンやファインマン、朝永さん、ゲル=マンがまったく出てこないというのはちょっと寂しい)、しかも理論や実験の内容ではなくその当事者たちがどんなようすでどんなことを言ったか、彼らは何をその場で議論したか、をまるで著者がその場所にいて見聞きしたかのように書くということに集中している。

たとえば、若いハイゼンベルクとパウリがミュンヘンでチャップリンの「キッド」を見たあと歩きながら話している。
「さあ話してくれ、ボーア法王はどうだい?クラマース枢機卿は?」とパウリが問う。
「いいかい、ボーアに会って初めて、僕の物理学における人生は始まったんだ」
ハイゼンベルクの言葉にパウリは頷いた。「それは僕も同じだ」
「ボーアは量子論の矛盾に誰よりも悩んでいる」そう言って、コペンハーゲンでの日々とかつてのミュンヘンやゲッティンゲンの時代との違いを説明しようとした。
.....
「でも、ゾンマーフェルトは自分のやり方に一貫性があるかどうかをそれほど気にしていないし、ボルンも違う意味で主な関心は数学的問題に向いている」
「確かにそうだ」とパウリが同意する。
「ボルンもゾンマーフェルトも深刻に悩んではいない。ボーアはほとんどそのことしか話さないというのに。クラマースは・・・・僕にはちょっと不思議なのだが」とハイゼンベルクは言った。「冗談を言うのさ。僕がそんな気分になれないときに」
.....
「君の新しい論文にボーア法王の祝福が与えられるかどうかはわからないけど」とハイゼンベルクが言った。
....
この会話は、もしあったとすれば1923年のはずらしいけど、実際にこうだったかどうかはわからない。著者注釈(膨大なためか本にはついてなくて、講談社の特設サイトにアクセスする必要がある)に発言の引用元が書かれていて、発言のそれぞれが別々の無関係な文献によっている。つまりこの会話は、あったであろう、あるいはあったら面白いな、という著者の創作である。

2000年に大学を卒業した著者が1923年に交わされた会話や、さらに前のアインシュタインとボーアの議論をナマで聞けるはずはないのでどのみち会話としてこの本に出てくるのは全て創作だと思って間違いということだろう。創作は別に悪いことではないし(作り話が悪いならSFなんか地獄行きである)、この本ではこれまで教科書のなかに名前が出てくるだけの人たちが、生きた人間として議論を戦わせるところを彼らのナマの発言としていかにも、と言う感じの書き方になっていてそれはそれで面白い。

またたとえば、本の前半に度々出てくるアインシュタインとボーアのふたりとも自説を絶対に曲げない頑固な人物のように描かれるけど、アインシュタインは反論に寛容で、反論者を論破するかわりに反論者が自説に疑問を抱かせるような思考実験を提示するという寛大で高潔な人物として描かれているのに対して、ボーアは自説に固執して、それが正しいと思えるような傍証に飛びついたり反論を感情的に否定する戯画的な人物のように描かれている。

僕はお二人のどちらも会ったことはない(当たり前だろ)ので真偽を判断することはできないけど、記述にどこか恣意的なものを感じてしまう。こういうのには僕は反射的に眉に唾をつけながら読んでしまうので、僕はこの本の望ましい読者ではなかったのかもしれない。


「式がひとつはいるごとに〇〇%読者が減る」と言われているらしいので、この本も「数式を全く使うことなく」というのが監訳者の前書きのしょっぱなにこの本の美点として書かれている。しかしこの本ではキーワードは示されるけど、式を使わないどころか、登場人物たちの議論の対象を説明するということを放棄している、としか僕には思えなかった。

この本の多くの部分、少なくとも他の本では読めない記述の多くは、量子力学を建設してきた多くの物理学者たちの議論で占められている。ところが何も知らずに読むと彼らがいったい何を議論しているのか、この本を読む限りではまったくわからない。隔靴掻痒どころか、どこが痒くてなにを掻いているのかぜんぜんわからないところが出てきてしまう。

たとえばさっき引用したハイゼンベルクとパウリの会話にある「ボーアが悩む量子論の矛盾」とは具体的にはなになのか、それをなぜゾンマーフェルトやボルンは気にしないのか、ということは他の物理学者の言及やボーア自身の断片的な発言の記述があるだけで、この本の中には筋道立った説明は現れない。

著者も前書きに
本書の目的は、既存の歴史書や教科書を補完することである。予測のつかない素晴らしい会話ややりとり、実験があったこと、そして時にそこから明晰さが生まれる感動的な瞬間があったことを伝えたい。
と書いている。たしかにその通りの内容だとは言える。

しかし、こういった本は「量子力学」がなんなのか全く知らない読者はそもそも書店で手を取らないのではないか、と思うし、ボーアとかボームとかボルンとか似たような名前が出てきて勉強したことがない人にはそれぞれの個性どころか区別さえつかないだろう。とすると、量子コンピュータなんかの流行りのハデな売り文句にうっかり煽られて買ってしまった人に迎合して表層的な売上に貢献するよりかは、シュレーディンガー方程式がどんなものかぐらいは知ってる人に的確な情報を与えて楽しく読んでもらった方がずっと実りあるのではないか、あとあとの期待もできるし、とつくづく思う。

さらに、なんども書いたように「ほんとかよ」という見てきたような描写があふれていてそれがまさしくこの本の魅力となっているがそれは別に、普通の教科書を読んでいたのでは知ることのないエーレンフェストの最後(Wikipediaでは「精神を病」んだことになっている)はショッキングで、もしそれが著者の創作ではなかったら、それを教えてもらっただけでもこの本を読んだ価値があったと僕には思える。

だからこそよけいにもっと物理的な内容にも記述を割いた方が良かったのではなかったか、エーレンフェストの名前も知らない人より、量子力学を勉強して彼の貢献を知ってる人にそれを読んでもらった方がいいのではないか、と僕には感じられてしまった(この本のエーレンフェストに関する記述の真贋は僕には判断つかないけど、当時の状況から十分ありそうには思える)。



ところで僕は「ベルの不等式」や「アスペの実験」の意義はおおまかには理解できてその意味するところもわかっていると自分では思っている。でもそれはすごく不思議なことのようにしか思えない。量子力学的な素粒子たちはその属性をもともとなにも持っていなくて、それを人間が観測したとき初めて「まるでしかたなく」スピンや偏光方向を表しているように思えてしまう。

二つの物理的実体同士の相互作用はマクロな物体なら衝突しない限り無視できるけど、素粒子同士では相互作用を無視することは自分自身を無視することと同じような事態になる。角運動量が単独で0ではありえない粒子がペアで作られたとき、最初に角運動量の合計が0だったら粒子同士が離れて相互作用がなくなってもその合計は当然0のままである。だからそれぞれの運動量が片方を観測するだけで両方が確定してしまうというのはいいとして、実験事実からはなんと観測されるまで確定しないままだというのである。

この本ではそれが「波束の超光速の収縮」で、そういうことがあり得る、というニュアンスで終わっているけど、それは僕にはまったく納得いかない。そういう一見、相対論と矛盾するかのような現象は、解釈の問題という気もするが、僕にはよくわからない。

アスペの実験の結果はいろいろな追試もあって間違いないのだろう。だからこの本の言う「隠れた変数」は存在しない。でもそうだとすると素粒子のいろいろな「属性」はそもそも存在しなくて、人間が観測するからその場しのぎ的に仮に作られるものであるかのように僕には思えてしまう。人間が「こうあれかし」と思うからその属性が現れるとでもいうように。

それはまるで量子力学建設当初の「観測問題」の再燃のように思える。「シュレーディンガーの猫」は観測されるまで生きているか死んでいるかという状態が確定しないだけではない。猫の生死が量子過程で決まるのではなく、たとえば普通の餌と毒入りとをひとつずつ置いて猫と一緒に箱の中に入れた場合との比較では、単に観測するまでわからないだけではなくて(毒餌は「隠れた変数」である)、量子過程が絡む場合には観測することで初めて猫の生き死にを問うことに意味が発生する、と言っているように思える。

僕にはまだまだよくわからない。


追記:
この本の中で僕が一番気に入った発言。
「理論物理学者がもっているもの、それはたくさんの教科書だ........大量の「フィジカル・レビュー・レターズ」誌もだ........偉人の伝記、それから偉人の著書......」
「でも実験物理学者がもっているものは」と言いかけて体の向きを変えた。台所のドアの脇の廊下にも天井まで届く本棚があって、薄い光沢のある派手な蛍光色の並製本の背が何段も並んでいた。
「カタログだ」そういうとクラウザーはニッと笑って歯を見せた。
「何かを作ろうとして部品が揃ってなければ、ここを探してみる。なんだって作れる」
わははははは、そうだろうそうだろう。
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