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「言語の脳科学」追記 [読書]

前の続き。僕は専門家ではないので勝手な思い込みに基づいて好きに書く。

チョムスキーの説は人間が生まれながらに文法を処理する能力を持っていると、語彙よりも文法が先にあると言っているに等しい。なぜそんなことがあり得るのか。今の進化の考え方では生物の能力がどうやって生まれたかは説明できないが、どう進化してきたかは説明できる。言語にも進化の過程があるはずである。語彙よりも文法が先に進化したというのは僕にはトンデモ説にしか思えない。専門家はどう思っているんだろう。

僕は、進化の過程を考えるともっとも最初にあったのは文脈の認識だと思っている。「文脈」というよりもう少し広い意味でここでは「コンテクスト(Context)」と呼ぶことにする(GraphicsContextみたいな感じで)。つまり自分の周囲の環境と、その中で自分の注目しているものに対する認識がまずあったと考えている。

コンテクストの認識は獲物を追いかける必要のある肉食動物や、また追っ手から逃げなければならない草食動物なら程度の差はあれ、持っていなければ生き延びることはできない。獲物や敵を周囲から区別して認識し、相手の大きさや距離をはかり、相手が逃げれば距離を詰められるように追いかけるし、追われれば周囲の岩を避けたり逆にそれを利用したりして逃げる。こういった獲物と無生物を区別したり敵を茂みの中に見つけたりという能力がコンテクストの認識である。

視覚は動物にとって自分の回りの状況を伝えてくれる有力な手段だが、それだけでは保護色で隠れた敵を教えてはくれなかった。そのうち背景に対して動いているものを強調するような視覚を持つものが現れる。そういったハードウェア的な進化に支えられてその動くものまでのおおよその距離やその大きさを見積もるような脳の機能が進化した。ソフトウェアとしての機能の進化である。

さらに前回獲物を捕らえた、あるいは敵から逃げ切ったなどという状況を整理したり記憶したりするといった機能を持っていれば次回有利になることはあきらかである。つまりコンテクストの場合分けや記憶ができるものが現れることになる。記憶のためには当時の視覚情報をそのまま残すという方法が最初にはとられたのだろう。

しかし、視覚情報をすべて記憶するには大量の容量を必要とするし、たくさん集まったときに分類が困難である。今の状況はこれまでのどれに近いか、を見つけるために時間がかかっていたのでは結局敵に捕まってしまう。人間は言葉を使ってコンテクストの認識を効率化した。言葉はコンテクストのなかのひとつの要素を代表する。ディテールを捨てることで容量も減らせるし分類も簡単になる。そうやって「言葉」が進化してきたんだと僕は思っている。その場合文法が先に進化するなどという状況はまったくあり得ない。「コンテクスト」の「シンボル」化が最も重要な出来事だったはず。

例えば、自分の目の前に他人がいて、そのあいだに果物がなっているとする。そのとき
「果物、食べる、私」
と言えばこの果物をお前ではなく私が食べるのだ、という主張をしていることぐらいわかる。ここには文法が存在していなくてもいい。語順もどうでもいい。そしてそのうち等値や時間の順序を表すために語順が利用されるようになった。つまり「ミー、ターザン、ユー、ジェーン」であって、「ターザン、ジェーン、セックス」である。それが順序を表す以外のことにも使われるようになっただけだと思っている。

「文法」は「コンテクスト」を省略するために発達したものだと僕は思う。言語の機能として他人への情報の伝達があるが、この場合コンテクストを共有できるとは限らない。最初は言葉を羅列することでコンテクストを再現するという方法をとっていただろうけど、その効率化のために主語と目的語の区別ができてそれが複雑化したものだと考えている。

例えば日本語では主語と目的語の区別を助詞で行うおかげで語順に関しては厳密ではないので、語順を強調などに使うことができる。逆に語順に厳密な英語では動詞+目的語+補語というような簡潔な表現が可能になる。これはたんに目的語を指定するのに助詞にするか語順で表すかによって違ってきた結果であり、こういった構造を構築する能力を生まれながらに持っているとは僕にはまったく思えない。

前にも書いたが、人間の思考と言語を切り離して考えるのはナンセンスで、言語は人間の思考能力そのものだと僕は思っている。だからもちろん「非言語的思考」なんていうものも存在しない。僕には数学の代数記号列も「言葉」ではないがそれと同列の「シンボル」を扱う言語だと思えるし、幾何学的な思考も(「動作」に結びついたシンボルを使って)同じである。「非言語的思考」の存在は言語の役割を過小評価したにすぎない。

例えば、楽器を弾く、なんて言うことも同じである。僕は初めて見るギターの楽譜をギターを持たずに読んで、その後楽譜無しにギターを持って演奏するということは簡単な楽譜なら可能である。このようなギターを弾く、というのも言語的な手続きによっている。音符の列は文字列を読むのと同じように読んでいるしそれに従って指を動かすのも、指の位置や形や筋肉への力の入れ方ではなく、発音したい弦とその長さ(押さえる位置)を頭に思い浮かべている。これも「言葉」を使っている訳ではないが、「弦を押さえる位置」という「シンボル」を言葉のように並べて構造化している。

しかし、「思考」は決して難しいことをしている訳ではない。前にも書いたが「命名」と「類別」だけである。進化の過程ではもともとそういうものだった。ある「類別」に対しても「命名」されることで高次の関係が表現される。すなわちシンボル間の関係を保持するデータベースが「思考」のもとで、それ以上の機能はない。従って「意味」や「論理」は厳密ではなく必ず曖昧さがあって、それぞれのデータベースによって、つまり個人によってその範囲や解釈が異なる。そして文法は二次的なものである。文法もふくれあがったデータベースを圧縮するための別のデータベースに過ぎない。従って全然「規則的」ではなく、その場その場で継ぎ足されてつじつま合わせしてきた結果である。それは生物の進化のプロセスそのものであって、数十億年間おなじみのものである。

こういったことは僕には自分自身の観察から自明のことのように思える。この本の著者の酒井さんやチョムスキーは自分たちの言語処理の能力が高すぎたんじゃないのか。僕と同じように自分の観察だけから結論して、僕みたいなのもいるということが気がつかずに他のみんなも自分たちと同じように難しいことができる思ったんじゃないのか。

ところで、僕の小学校の頃の成績はほんとうにすごかった。5段階評価で1が並んだ。学校生活での表現力や協調性は体育の評価になったので、体育は1か2以外もらったことがなかった。何年生だったか忘れたけど1学期の通信簿を持って帰って母親に見せたときのことを覚えている。居間で正座して向き合っていて、しばらくして母親がパラパラと涙をこぼした。そのときまでは成績が悪くてもなんとも思わなかったが、このときばかりは「ひょっとしてこれはマズいんだろうか」と思った。そのとき思っただけだったけど。
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